▼symbiotic relation 2


 もぎ取った果物を、ちょうど未央の手に収まるように投げてやる。すっぽりと手に収まったそれを、未央はしげしげと眺めた。
 見たところ、ごく普通の林檎に見える。毒の匂いもない。未央はますます訝しげに頭を傾けた。
 猫を信じない訳でも疑う訳でもなく、本当に自分を食べるつもりがない事を知って、ただそれが疑問だった。てっきり場所を変えて食べられてしまうものだと思ったのに。
 自分の分の林檎をもいだ隆之は、食物に手をつける様子のない未央に、身軽に飛び降りながら苦笑する。
「まさか、果物の食べ方がわからないわけじゃないだろうな?」
「いいえ・・・そういうわけではないのですけれど」
「腹が減ってるんだろう? 遠慮しないで食べろよ」
 隆之は未央の様子をなおも疑わしげに、軽く服で果実を拭き、そのまま噛り付いた。こうやって食べるんだよ、とちらと視線を投げかけてやれば、未央は少し困ったような顔で笑った。
 冗談で言われたことかと思ったが、彼は本当に自分が、果実の食べ方も知らない世間知らずと思い込んでいるようだ。
 無理もないか、と自分の発言を思い出しつつ未央は目を伏せる。そもそも、猫を前に逃げ出さないウサギというだけで、自分は相当に変わり者と思われているだろう。
 未央はそんな隆之の視線を受けながら、彼のようにとはいかなかったが、少し無理をして大きく口を開け、林檎に噛り付く。
 甘酸っぱい芳香と蜜がさっと口内に広がった。久しぶりに口にする瑞々しい果肉は堪らなく美味しくて、未央はそこでようやく、自分が本当に腹が減っていたという事を自覚した。
 二口目を噛り付き、ゆっくりと咀嚼して飲み込んで、未央は目の前に座る猫ににっこりと無邪気に微笑んだ。
「美味しい、です」
「そうか」
 素直な感想を述べると、猫ははにかんだように笑って自らもまた林檎に噛り付いた。その様子を眺めながら、未央も少しずつ林檎を腹に納めていく。
 大人しく食事をはじめたウサギを、隆之は複雑な思いで見つめた。食事をするという事は、生きたい、と明確に思っているわけではなくとも、とりあえず生きる意志がないわけではないようだ。
 全く、どこまでも不思議なウサギだと隆之はひっそり溜め息をつく。こうしてそのウサギを食べずに面倒を見てやっている自分もまあ、不思議ではあるだろうが。
 何故なのか、もう未央を食べてしまおうという気持ちは微塵もなくなってしまっている。若く、美しく、そこそこに肉付きもいいこの少女なら、それは美味しくいただけるとは思うのだけれど。
 ―――けれど少女には、自分と違い、帰る場所があるのだ。
 どんな理由があって群れを離れ、あんな場所で食事もせずに蹲っていたのかはわからないが、帰る場所があるなら帰った方がいい。
 二つ目の林檎に手をつけ、もう一つを未央に転がしてやりながら、隆之は獲物を前に珍しくも穏やかな気持ちになって、ぽつりと呟いた。
「腹が膨れたら、群れに帰るんだな」
「・・・帰る?」
 未央の動きが止まった。青い双眸の柔らかな光が消え、鸚鵡返しに返ってくる声が硬くなっている。
 しかし彼女から顔を背けていた隆之はそれには気が付かず、淡々と諭すように続けた。
「猫と一緒にいるところなんか見られたら、仲間に疑われるだけだ。下手すりゃ追われる事になるかもしれない・・・早めに戻った方が」
「帰るところなんてありません」
 隆之の言葉を中途できっぱりと遮った声は、初めて紡がれる、強く凛とした声だった。
 華奢な外見からは想像も出来ないきつい調子で返されて、隆之は思わず絶句して目を瞠った。顔を上げて未央を見れば、先程までの、ある意味で透明な気配が消え、色濃く感情が見て取れる。
 それは、深い悲しみだ。声からは怒りの片鱗を感じた隆之だが、実際の表情に浮かぶのは悲哀だった。
 真っ直ぐに隆之を見つめて、未央は大きな瞳から涙を零した。
 儚くも美しく、圧倒的な存在感を持って目の前に座る少女に、隆之は無言で見惚れる。
 未央は流れる涙もそのままに、手に持ったままの林檎に目を落とした。
「もう、お兄様もいないの。誰も、わたくしを迎えてなんて、くれません・・・」
「・・・・・・」
 脈絡もなく告げられた言葉に、隆之はようやく、彼女の不可思議な様子の全ての理由を察する事が出来た。
 彼女は、兄を失ったのだ。もっとも自分に近しい、おそらくはたった一人きりの、最愛の肉親を。
 未央は言葉を吐いたまま俯いて、膝にぽたぽたと涙を落として嗚咽を堪えもせず泣き続けている。その声は悲痛で、心に鋭く突き刺さるようだ。
 その様はやはりたまらなく哀しく、美しい。静かな光景から隆之は目を離せず、また胸にじわりとこみ上げてくるものを自覚する。
 ―――触れたい。抱き締めたい。
 隆之はそっと未央に手を伸ばした。一瞬躊躇い、だがその欲求に逆らう事は出来ずに、指先を陽光に煌き艶を放つ黒髪に差し入れた。しっとりとした質感が指に心地好い。
 そのまま宥めるようにゆるりと頭を撫でてやり、隆之は努めて優しく尋ねる。
「兄がいたのか」
「はい・・・」
 未央は喉をしゃくりあげながらこくりと頷く。本当に小さな子供のようだと、隆之は薄く笑った。
 彼女の悲しみの深さは、失った兄への愛情と比例する。未央にとっての兄は全てで、世界で一番優しいものだったのだろう。
 髪に絡めた指先を後頭部に当て、小刻みに震える体を引き寄せる。胸に顔を押し当ててやると、暖かいものが服を濡らした。構わずに抱き締めれば抵抗はなく、華奢な体はすっぽりと胸に収まった。
 少しでも悲しみが和らげばと、隆之は何度も頭を撫でながら、耳元に低く囁きかけた。
「いいお兄さんだったんだな」
「・・・はい・・・」
 再び、間を置かずに頷いた未央に、隆之はその悲しみが伝染してきたような気持ちになった。
 しかし、自分と分け合う事でその悲しみが半分になるなら、と思い、願う。
 隆之は顎をとって、未央を上向かせた。涙は未だ涸れる事無く、頬の少女特有の柔らかな曲線にそって顎へ伝い、地面へと落ちた。
 止め処なく流れるそれを、隆之はざらついた舌で舐め取ってやる。
 白磁の頬は滑らかで、口に含んだ涙はひどく甘かった。
 頬から目元に舌を滑らせ、そっと口接けを落とす。最初は涙の痕を消すためにと思っての行為だったが、それは途中から明らかに意図を変えたものとなっていた。
 鼻に、瞼に、頬に。唇だけはとりあえず避けて、隆之は優しいキスを繰り返す。
 しばらくはされるまま目を閉じていた未央だが、顔中に口接けの雨を降らされて、たまらず涙も忘れて肩を竦めた。
「や・・・くすぐったいです」
 衣服の胸元を引かれ、そこでようやく隆之は未央を解放した。少女の顔からは、悲しみこそ消えてはいないのだろうが、涙はない。今はそれだけでも充分だろう。
 未央は恥らうように口元に手を当て、うっすらと頬を朱に染めて俯いている。行為への恥じらいか、それとも思い切り泣いた事への恥じらいかはわからないが、いかにも初々しいその様子は素直に可愛いと思った。
 柔らかな体を抱き締め、何とはなしに手を繋ぎながら、隆之は、帰る場所がない、と言った未央の言葉を思い出す。
 結局は彼女も、自分と同じなのだ。行くあても帰るあてもない。
 それなら、と理由付けるのは卑怯かもしれないが、今、こうして繋いだ暖かな手を、離したくないと思った。
「なあ、未央」
「はい」
「行くところがないなら、しばらく俺と暮らしてみるか?」
 突拍子もない誘いに、青い瞳が大きく見開かれた。
 言葉の意味がわからない、とでもいうような未央の表情に、隆之は少しだけ困った顔になる。こういった事を子細に説明するのは照れくさいものだが、うやむやにするのはそれこそ卑怯だろう。
 少しずつ言葉を選びながら、隆之はゆっくりと自らも言葉を噛み締めるように、未央へとそれを伝えた。
「俺も、この紫の目のおかげで群れからは追い出されて一人だし・・・ウサギ一匹くらいなら面倒見てやれる。俺と一緒に生活してみるつもりはあるか?」
 砕いた言葉での説明にようやく意味をつかめたのか、ぱあ、と花開くように顔を輝かせた未央だが、しかし次の瞬間にはふと思い当たってまた顔を暗くした。耳がしゅんと項垂れる。
「でも、わたくし、何もお礼が出来ません。それこそ食べてもらうくらいしか・・・」
「そうだな、じゃあ・・・例えば、違う意味で『食べる』とか」
 隆之は抱き締めた腕に僅かに力を込め、垂れた耳を軽く引いてそれに甘く噛み付いた。
 急所ともいえる部分を刺激され、細い体が怯えたように震えた。それを宥めるように隆之は指先に髪を絡めて頭を撫でてやりながら、『捕食』を続ける
 歯は使わず、唇だけで何度か愛撫するように噛み付いてやると、さすがに何か感じるものがあったのか、未央は居心地悪げに身動ぎした。
 ふと見下ろせば顔が赤い。この手の事はまるで経験もないのだろう、初心な反応に気をよくして、隆之はゆっくりと付け根へと唇を滑らせる。すると敏感な箇所に当たったらしく、一際大きく体が震えた。

「気持ちいい?」
「んっ・・・ふ、あ・・・」
 問いかけに小さく首を振った未央は、腕の中でおずおずと顔を上げ、困った顔で隆之を見上げた。涙の滲んだ青い瞳は、一層鮮やかに輝いて隆之を映す。
「あの・・・隆之、さん」
「ん?」
 戸惑いがちの呼びかけだった。それはまあ戸惑うだろうと、隆之は一旦耳から口を離して未央の視線に応じた。
 未央は言い難そうにしばらく口篭り、やがて意を決したように口を開いた。
「耳は、美味しくないと思うんですけど」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
 あまりお肉もついていないですし、とひどく申し訳無さそうに未央は長い睫毛を揺らした。
 隆之は目を瞬かせて未央を見る。彼女は、行為に多少は顔を紅潮させてはいるが、真剣そのものの表情だ。
 真面目に、食べられる、と思ったらしい。
 すっかり毒気を抜かれた隆之は、未央を腕の中から解放し、大仰な溜め息をついてみせた。今度は未央が青い双眸を瞬かせて隆之の顔を覗き込んだ。
「あの、やっぱりわたくし、美味しくなかったですか?」
「・・・そうじゃないよ」
 本気で心配したらしい未央に、隆之は優しく微笑んでやる。純粋培養というか世間知らずというか、本当に、一から色んな事を教えてやらねばならないようだ。
 それはきっと、大変な苦労になる。自分と彼女では生きる環境も習慣も何もかも違うのだ。意見がぶつかり合う事だってあるかもしれない。
 だが、彼女となら時間を共有するのも楽しくなるだろうと思えるのは、何故なのか。
 隆之は目にかかる前髪に乱雑に手を突っ込んでかきあげ、自らも忌んでいた紫の瞳を陽の光の下に露にした。
 未央が綺麗だと言った、紫の目で彼女を見つめる。
 正面から向き合い交わった視線に未央はきょとんとした顔になった。隆之は目を細め、答えを促すように首を傾ける。
「どうだい、俺と来てみるか?」
 もしかしたらそのうちに、お前さんの事を食べちゃうかもしれないけど?
 冗談半分、本気半分で付け加えると、未央は軽く目を瞠り、けれど何の逡巡もなしにこっくりと頷いた。
 柔らかな笑顔。本気のようだ。出会ったばかりのか弱い生き物に、全幅の信頼を受けるというのは、こそばゆいが悪い気分ではない。
 そうか、と照れ隠しに笑う隆之に、未央は身を乗り出してすっと顔を寄せると、小さく舌を出して隆之の頬を舐めた。
「・・・っ」
 生暖かい、独特の質感を持ったものが頬に触れる。
 突然の事に、情けなくもあからさまに動揺し、声すら出せずに隆之は未央から飛び退いてしまった。顔が熱い。特に、未央が触れた部分が焼けるようだった。
 呆然と頬を押さえて未央を見ると、未央は平然とした顔で微笑んだ。
「ええと、不束者ですけれど、よろしくお願い致しますね」
「・・・・・・あ、あぁ・・・」
 深々と頭を下げる未央に、未だ衝撃に顔を引き攣らせたままで隆之は生返事をする。
 未央はやはり表情に変化はなく、どうやら先程の行為は、挨拶か、親愛の証のようなものだったらしい。
 隆之は何とも言えない顔になって俯いた。参った、と片手を顔に当てて唸る。
 波乱尽くしの生活になりそうだった。



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