▼symbiotic relation 1


 湖を覗き込めば、映るのは気味の悪い紫の双眸。
 光の加減で赤味が強まって見えると、それはまるで血の色のようだった。気持ちが悪い、吐き気がする。
 見れば見るほど、硝子玉の様な虚ろな目だった。何も映さずに他人を拒絶してるくせに、そのくせ寂しげな色をして何かを欲している。
 知らず、表情が嫌悪に歪み、低い舌打ちが漏れる。大嫌いだ、こんな異端の色の瞳など。
 手元に触れた石を、不快な感情のまま湖に投げ入れる。静かな湖面に映っていた姿は、醜く歪んで広がって消えてしまった。
 そこでようやく、心が軽くなった。すっと立ち上がり、ふん、と鼻を鳴らして周囲を見渡す。風の匂いを嗅ぎ、耳を澄まし、空気の流れを読むために目を閉じた。
 場に静寂が訪れた。そうしてしばらく立ち尽くした後、瞳を開く。
 野生に暮らす者特有の鋭い感覚が、獲物の気配を敏感に捉え、赤毛の猫は満足げに微笑んだ。

 獲物はすぐに見つかった。が、猫は思い切り不満げに眉根を寄せていて、ただその獲物を睨み付けていた。
 しかし刺すような視線にも、獲物はまるで怯える風もない。それもまた猫を苛立たせる理由の一つだ。自分の眼光を受けて、自分を怖れないなど。
 ―――獲物の気配を捉えた猫は、様々なシミュレーションを立てて獲物を追い詰める算段をしていたが、それら全ては徒労に終わった。
 『狩り』にもなりはしない。獲物は猫の気配を感じても、またその姿を目の前にしても、一歩も動きはしなかったのだから。
 猫は自分を真っ直ぐに見上げてくる獲物を、不思議なものを見るような目で見下ろした。
 獲物は、青い瞳をしたウサギだった。


 川面を覗き込めば、映るのは気味の悪い青い双眸。
 白い肌に、それは異質にしか思いようもない。冴え冴えとした色は、深い海の底を思わせて恐ろしかった。
 見れば見るほど、硝子玉の様な虚ろな目だった。何もかもを見通すような青いその瞳は、やはり何度見ても気分が悪くなるばかりだ。
 自分でさえそうなのだから、他人は尚更だろう。得体の知れないこの色に嫌悪を抱くのは当然の事の様に思えた。
 深く長い溜め息をついて、膝を抱え直す。とはいっても腕には既に力が入らず、抱えるというよりは手をのせている、という方が正しい。
 正直座っている事も億劫なほどだった。
 指先にさえ力が入らない己の体に、ふと、考える。―――最後に食事をとったのはいつだったか? それすらよく思い出せなかった。
 頭が考える事を拒否しているのかもしれない。そう思えば納得も出来た。食事をしなかった時間は、自分が一人でいる時間と比例するからだ。
 立てた膝に今度は頭を乗せて、ゆっくりと目を閉じた。世界が閉じていく。闇に包まれるような感覚は、今はとても心地がいい。
 暗いところは嫌いだと、兄に縋って大泣きしたのは、そう遠くない過去だった筈なのに―――
「・・・・」
 伏せた頭と共に垂れていた耳が、ぴくりと震えた。
 身を守るだけの力を持たない者特有の、過敏すぎるほどの神経が、危険を察知したのだ。けれど動く気にはなれなかった。
 どの道、足も上手く動かない。今更走って逃げたところで無駄だろう。
 気配を消す事もなく近付いてくる、おそらく自分に害を成そうとするものを、ひどく穏やかな気持ちで迎える。
 逃げる事もせずにその場にうずくまったままでいると、木に身を隠して立ち止まった者の、その場で足踏みしているような困惑した気配が伝わってきた。
 それもそうかと思う。普通、『獲物』は逃げまどうものだ。
 こうして、まるで死を望んでいるかのようにじっとしているなんて、正気の沙汰ではないだろう。
 しかしどうしても、逃げる気持ちにはなれなかった。死を求めるわけではないが、生にも執着していない事は否定しようもない。
 やがて、『捕食者』が姿を現した。
 木の影から現れたそれは、吸い込まれそうな紫の目をした猫だった。


「・・・どうして逃げない?」
 開口一番にそう問いかけられて、ウサギは僅かに目を瞠った。
 理由などなかった。ただ逃げるつもりになれなかっただけで、
 だからといって死ぬ気持ちになっていたわけでもなかった。
 自棄になっていたのは確かだけれど。
 いかにも不可解だ、と眉根を顰める猫を、ウサギはまじまじと見つめる。
 その猫の方こそ、ウサギにしてみれば不可解だった。どうしてそんなことを尋ねるのか、意図がまるで掴めない。
 彼は自分を殺して、食料にするつもりでここまで来た筈だ。自分は逃げずにここにいるのだから、話し掛ける事などせずに殺してしまえばいいのに。まるで他人事のようにウサギは思う。
 ただ呆けたような視線だけを上向かせるウサギに、猫は痺れを切らしたように呟いた。
「俺がどうしてここにいるか、お前さん、わからないのか?」
 苛立った言葉をぶつけられて、ウサギは首を傾げた。座っていると地面にも広がる長さの髪が、彼女の動きに合わせてゆらゆらと揺れる。
 やや考えるような仕草をしてから、ウサギはゆっくりと頷いた。
「・・・・・・わかっている、と思います。多分」
「怖くないのか」
 続けて問い掛けられて、ウサギは再び首を傾げる。
 怖いかと聞かれれば、怖いというわけではない気がした。孤独に終わりが来るなら、死も悪くないのかもしれないと、一瞬だけ思う。

 それだけではなく、ただ単純に、目の前の猫と『死』が、ウサギにとってみれば結びつかないものだった。
 初めて間近で見る猫は、とてもキレイだった。
 紫の瞳も、赤茶の毛並みも、また彼を包み込む空気も、どれもが『死』など感じさせず、ウサギには美しいものとしてしか映らない。
 何より自分を見下ろすその視線の色には、まるで凶暴なものがなく、そのせいもあるだろう。
 ウサギはじっと紫の瞳を覗きこみ、しっかりと頷いた。
「怖くは、ないです。・・・不思議な目の色をしているんですね」
 やや的外れな事を呟いた彼女に、猫は大きく目を瞠った。
 丸く大きくなった瞳は、やはり大粒の宝石のようで、ウサギはますます珍しそうに猫の顔を覗き込む。身を乗り出す仕草には、確かに恐れる気配は全くない。
 猫は当惑した瞳でウサギの青い視線を受け止めた。
 注意して見れば、ウサギの方こそ不思議な色合いの瞳をしている事に気が付いた。自分を見上げる真摯な双眸は、鮮やかな赤でなく聖らかな青だ。
 あえてそれには触れずに、猫はぐしゃぐしゃと髪をかきまぜた。
「紫の目なんか、気味が悪いだけだろ」
「・・・わたくし、猫さんを間近で見るのは初めてで、よくわかりませんけれど・・・」
 ウサギは猫の発言を否定するでもなく、さあ、と困ったような顔をしてから、口を開いた。
「その紫の目は、とても綺麗だと思います」
 地に足が付いていないような口調で、ウサギはぽつりとそう言う。

 
猫は今度こそ零れ落ちんばかりに目を見開いた。
 紫の瞳は、猫としては異質だ。それ故、自分はずっと群れから疎外されて生きてきた。
 そのことを、恨めしいとも悔しいとも思った事はない。実際、こんな中途半端な目の色など、気味が悪いだけなのは自分でも良くわかる。
 ―――それを、このウサギは、美しいと言う。
 今すぐにでも殺される、その状況で、ウサギは確かにそう言ったのだ。
 覗く青の双眸はどこまでも透明で淀みがなく、それが嘘ではないことが容易に知れた。少女は、異質であるとか気味が悪いとか、そういった先入観はもたずに、紫という色をキレイだと思ったのだろう。
 それは無知ゆえかもしれないが、猫にとっては初めての事だった。
 猫はすっと手を伸ばし、ウサギ自身でなく、その艶やかな黒髪に触れた。絹糸の感触を楽しむように撫で、一房を指先に絡める。
 ウサギはそんな動きさえ、不可解なものを見るような、珍しそうな視線で見つめた。
 彼女自身の言葉の通り、おそらくは『猫』、または自分の敵になりうる生き物を見た事が無いのだろう。
 しばらく髪の感触を手で楽しんでから、猫はふ、と微笑んだ。
「逃げるつもりはないんだな?」
「逃げられるとは、思っていません」
「食われても構わないと?」
「どうぞ、お好きなようになさいまし」
 投げ遣りという事はなく、淡々とウサギはそう答える。

 運命を受け入れるといった高尚な事ではないのだろうが、生への執着が薄い事は明らかだ。
 猫は少し考えて、しかしウサギを食べるという思考へは辿り着けずに、しゃがみ込んだままのウサギへ腕を伸ばした。
 細い腰へ腕を絡める。ウサギはさすがに恐怖を感じてか、声こそ上げなかったが僅かに体を強張らせた。が、構わずに腕に力を込める。
 ウサギの体が宙に浮いた。
「え・・・・・・?」
 難なくウサギの体を肩に担ぎ上げた猫は、抵抗のなさには既に慣れていたが、今度はその体があまりに軽い事に驚いた。
 思わず言葉が口をついて出る。
「・・・軽いな」
「・・・三日間、何も食べてなかったんです」
 黒髪を揺らして首を傾けたウサギはそういえば、と指折り数えてそんな事を言う。
 猫は呆れかえって溜め息をついた。
「・・・・・・そういう事じゃないんだが・・・・・・まあ、いいか」
 軽いが雌特有の柔かさがある体をしっかりと抱え直して、猫は笑った。ふい、と森とは少し外れた方向へ顔を向ける。
「この先に果物が取れる場所がある。まずはそこで食事にするぞ」
 決定事項として告げれば、ウサギは驚いたようではあるが抵抗したり、暴れたりはしなかった。素直に頷く彼女へ、猫は晴れやかに微笑んだ。
「俺は隆之だ。お前さんは?」
 名乗ってやると、さらにウサギは驚いた顔になった。青い目を見開ききょとんと自分を見つめる顔は、随分と幼い印象を受ける。
 ウサギは、礼儀と思ったのかなんなのか、ごく薄く微笑んだような表情を見せて、猫の肩の上で丁寧に頭を下げる仕草をして見せた。
「わたくし、未央と申します」
 ―――これが、ウサギと猫との奇妙な共同生活の始まりであった。




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