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   plaything   ・・・first impression
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 行為の最中にも熱を帯びる事もなく、冷たく自分を見下ろす赤い瞳。
 綺麗だと、そう思う。その視線に宿るものがただの欲望で、自分を蔑むような憐れむような、好意の欠片もない冴えた色であっても、それでも。
 どんな炎より美しく強く、そして恐ろしい双眸。
 捕らわれてしまったのがいつだったのかは、もう、思い出すことも出来ない。
 気が付いた時には、彼しか見えなくなっていた。彼の声しか聞こえず、彼の匂いしか感じず、体の全感覚がいつでも彼に向けられて。
 そうだという自覚もなしに、自分は。
 ―――恋に、堕ちていたのだ。


 カイは深く大きく溜め息を吐いた。今日一日で、もう何度目になるだろう。微かな頭痛さえ覚えて、カイは柔らかに陽光を弾く前髪を弾いて額に指先を押し当てた。
 つい俯きがちになってしまう顔を髪をかきあげながら上向かせ、カイは再び口を開くと、今度は溜め息の代わりに凛と声を響かせた。
「ソル―――ソル=バッドガイ! 返事をして下さい!」
 この名を叫ぶのも何度目だろう、と周囲を見渡しながらカイは思った。大体、誰かの名前をこんな風に大声で呼ばわった事さえ、今までなかった事だ。
 しばらく足を止めて返事を待ったカイだが、予想通りどこからも返る声はなかった。木々のざわめきを耳に心地好く受け止めながら、カイはさらに人気の少ない林の方へと足を進める。
 彼は大抵、人目を避けて一人でいる事が多い。何をしているという事もなく、眠っていたり煙草を吸っていたりと時間を潰している。訓練にも滅多に顔を出さない彼を、しつこく追い掛け回したこのしばらくの間で学習した事だ。
 土を蹴って歩きながら、カイはソルの事を思う。彼がこの聖騎士団に、クリフに伴われてやってきたその日から、彼の事を考えない日はなかった。あまり、良くない意味で。
 初めて彼と出逢った時のことは、忘れられない。かつてあんな人間を、カイは見た事が無かった。
 ギアのそれと酷似した赤い瞳にまず驚いて、彼の纏う空気の異質さに寒気さえ覚えた。クリフが隣にいなければ、自分は間違いなく彼を敵と認識し、剣を抜いていただろう。
 本能の深い部分が、危険を訴える。それでも目を離す事は、何故か出来なくて。
 今になって考えてみると、やはり警戒心だったのだろうと思う。自分より遥かに強い力を持つ彼への、例えば嫉妬のような感情もあるのかもしれなかった。
 模擬試合や御前試合では――そういったものに彼が顔を出す事は稀であったけれど――カイは、一度もソルに負けた事はない。
 だがそれが、決して彼の全力でない事は知っていた。剣を合わせれば、相手の力量くらいは推し量れる。勝ちを譲られている事がわからぬほど、カイは未熟でも愚かでもなかった。
 カイの知る限り、騎士団内の訓練や試合で、彼は一度として本気で闘った事はなかった。
 いつも、目が冷めている。その色は炎のように、血のように鮮やかなのに、強い感情の色が浮かぶのを、カイは見た事が無い。
 澱んだ血の色の瞳は、けれどひどく透明だ。全てを見透かすようでいて何も見えていないような、不思議な違和感をもってカイを引き付ける。
 剣を合わせている時でさえ、一度も、視線が交わらない。
 自分程度では、本気を出すに値しない、とそういう事なのだろうか。だとしたらそれは、騎士である自分には敗北よりも屈辱だった。適当に剣を合わせて勝ちを譲られるより、圧倒的な力の差を見せ付けられた方がよほど気が楽だ。
 冷たい瞳。嘲るように馬鹿にするように、坊や、と呼びかける低い声。どうしようもなく神経に障る。
 何故こんなにも彼に気を引かれるのか、自分でもよくわからない。わからないからこそ、引き付けられるものがあるのかもしれなかった。
 カイは僅かに目を伏せて、小さい肩を落とすとまた溜め息を吐いて、暗くなりがちな思考と沈んでいく感情を振り払うように頭を振った。自分は、思い悩み立ち止まっていられる人間ではないのだ。
 ―――例え彼に及ばずとも、私はもっと強くならなければならない。誰よりも、どんなギアよりも強く。それが、この力を与えられた自分の使命なのだから。
 自らの未熟に一度唇を噛んで顔を上げると、木々の影から騎士団の制服の裾が閃いた。はっとするのと同時に、数人の騎士がカイを取り囲むように現れる。
 そのうちの一人が、一歩を踏み出してカイに近付いた。あまり感じの良くない笑みを浮かべ、男はじとりと絡みつくような視線でカイを見下ろす。
「こんな人気のないところで、何をなさってるんです?」
 丁寧ではあるが慇懃な口調に、カイは眉を顰めたが何も言わず、さっと全員を一瞥した。どうやら自分を知っているようだが、見覚えのない顔ばかりだった。自分の部隊の人間ではない。志願兵の一員だろうか。
 しかし、思考に暮れていたせいもあるだろうが、これだけの気配を感じずにいた自分を密かに恥じて、カイは意識して笑顔を作って尋ねた。
「すみません、ソルを見かけませんでしたか?」
「おやおや、あいつと逢引きですか?」
「・・・は?」
 大袈裟に感心するような男の声に、周囲からも低い笑い声が漏れる。カイは男の言葉の意味を掴みかねて、ますます眉を顰めた。
 何を、と問い掛けるより早く、男がまた一歩を進み出て手を伸ばしてきた。反射的な動きでその手を避けるように後退ったカイだが、それは背後にいた騎士に肩を掴まれる事で封じられ、男の手は無遠慮にカイの顎を捕らえた。
 それらを払い除ける事は造作ない事ではあったが、騒ぎを起こすのもよくないとカイは無言のまま、男の手に促されるようにして顔を上げる。
 鋭い視線に引く事もなく、男はカイに顔を近付けた。開いた口からは、汚く澱んだ声が流れでた。
「てっきりクリフ団長のような老年が趣味だと思っていましたが、ああいうのもお好きなんですねぇ?」
「・・・・・・!」
 言葉の揶揄する意味を悟り、白い頬が瞬時に赤く染まった。
 男の剥き出しの欲望が浮かんだ瞳と下卑た言葉に、羞恥ではなく怒りが全身を熱くする。指先には力が篭り、爪が皮膚に食い込むその痛みも、怒りを忘れさせるには至らない。
 爛々と輝いた翡翠の双眸が、鮮やかにその色を深くして男を射抜いた。
 まだ成長途中の小さな体には不似合いな、物騒な色を讃えた瞳にも、しかし騎士たちは引かなかった。むしろカイの反応を面白がるような表情になって、肩を掴んだ腕に力を込め、戒めを強くする。遠慮のない力に体が軋んだが、カイは表情一つ変えなかった。
 痛みにも取り乱す様子もなく、静かに目を細めるカイに、男はその手を襟元に滑らせながら囁きかけた。
「どうやって団長をたらしこんだんですか? 俺たちにも教えてくださいよ」
「可愛くおねだりしてみせたりしたんでしょう?」
「な・・・っ」
 投げかけられた男たちの言葉と、そのあからさまな態度に、カイの表情が怒りから驚きへと変わる。自分を取り囲む男たちの目的がやっかみや侮蔑ではない事を、カイはここでようやく知った。
 自分を映す男たちの目の濁りをはっきりと見て取って、驚愕と共に吐き気のようなものがこみ上げた。
 人の肉の欲望というものを、カイとて知らぬ訳ではない。だがまさか自分が、周囲からそういった対象として見られているだなどと、今の今まで考えた事もなかった。ましてや自分は男である。悪い冗談のようにしか思えなかった。
 しかし、男たちにとっては冗談でも何でもない。上着の留め具にかかった指が、器用にそれを外し、そこで抵抗も忘れ硬直していたカイは、はっと我に返って鋭く声を発した。
「何を・・・離しなさい!」
「今更何をカマトトぶる必要があるんですか? 大人しくして、お互い楽しんだ方が得ですよ。どうせソルとも寝たんでしょう」
 行為を止めずに吐き出される男の口調は、終始丁寧なままだ。
 少しの敬意も感じられない、馬鹿にされているようなそれは、却ってカイの神経を逆撫でした。無遠慮に触れてくる他人の体温はカイに嘔吐感をもたらしたが、全身に走る怖気はそれを上回る怒りに塗り替えられていく。
 捕らえられ自由にならない腕にカイはきり、と歯噛みして、拳を握り締め力を集中させた。
 団員を相手に騒ぎを起こす事はしたくなかったが、彼らの言動は、若く潔癖なカイには見逃せるものではなかった。自分がどうこうと言われる事は腹も立たないが、騎士団の長であるクリフの事は別だ。彼らが団員であるからこそ許せない。
 それに、ソルとまでおかしな誤解を受けていたなどとは。
 金糸の髪がふわりと揺れ、ざわり、と空気が色を変える。場を包んだ緊張感に、男たちが一瞬気圧されたように動きを止め、息を呑んだ。
 男たちが怯んだその瞬間に、場の空気に低い声が割り込んできた。
「うるせぇな・・・」
「・・・ソル!」
 頭上から、声と共に葉が舞い落ちる。顔をあげた先にいた男の姿に、カイではなく周囲の男たちが驚きの声をあげてカイから離れた。戒めから解放されたカイも一瞬怒りを忘れ、声の方へと首を巡らせる。
 太めの枝に体を預け、どうやら眠っていたらしいソルは、煩げに髪をかきまぜながら殆ど物音も立てずに地に降り立った。
 視線が集まるのにも頓着した様子もなく、ソルはすいと視線を走らせると、いかにも柄の悪そうな男たちに囲まれたカイの姿に視線を留めた。そこで初めてカイの存在に気が付いたように眉を顰め、面倒そうに溜め息を吐く。
「またてめぇか・・・」
 苛立たしげに舌打ちしたソルの紅蓮の双眸が、眉根を寄せたカイからその周囲の男たちに向けられた。
 冴えた視線を投げかけられ、全員が身を強張らせたが、ソルは特に何も言わず最後にもう一度カイに視線をやると、すい、身を翻した。自分には関わりのない事だ、と言わんばかりの所作だった。
 カイはそれも当然かと小さく息を吐いただけに留まったが、あっさりとその場を辞そうとしたソルに、カイとの関係を完全に誤解していた男たちは目を見開いた。
 彼らは、ソルが自分を助けるために現れたものと思ったらしい。全く酷い誤解もあったものだ、とカイはまた深く溜め息を吐いたが、呆気にとられていた男の一人が、はっと思い立って口を開いた。
「ソル、お前も一緒にどうだ?」
 男は努めて陽気に、ソルの背中に語りかける。カイは信じられないその内容に目を瞠って、思わずソルの背中を見やった。彼らとしては、目撃者であるソルを共犯に仕立て上げてしまいたいのだろうが、苦し紛れの提案にしても馬鹿げすぎている。
 ソルは男の声にとりあえず、といった態で振り向いた。その所作を肯定的なものと受け取って、男はさらに言い募った。
「お前にご執心みたいだし、なあ?」
「・・・下らねえ」
 焦りの窺える口調に、しかしソルは素っ気無く呟いただけだった。
 赤い瞳が男に囲まれたままのカイに向けられた。真っ直ぐに向けられるそれに、カイは知らず身を緊張させた。鮮やかなその色に、引き込まれそうになる。
 抗えない。抗いきれない強い引力がある。この瞳には。
 しばし絡んだ視線に息を呑み、値踏みするような遠慮のないソルの眼差しにカイは身を竦めたが、ソルはさして感じるものもなかったようで、口元に薄ら笑いを浮かべて顔を逸らしてしまった。
 お前になど興味はない。嘲る笑みを浮かべた表情はそう語っているかのようだ。
 カイは深く息を吐きながら、不意に小さな痛みの走った胸元に手を当てた。既にカイから視線を外していたソルはそれには気付かず、軽く顎を逸らした。
「そんな骨と皮だけのガキ、何が楽しいんだ」
 ふん、と鼻を鳴らして吐き捨てたソルは、改めて男たちへと視線を走らせた。
 牽制するつもりではないのだろうが、その冷たい視線には苛立ちが色濃く、それに付随して強い威圧が含まれている。男たちは誰からともなく後退り、ただ立ち尽くすだけのソルから距離を取った。圧倒的な存在感に気圧されてか、もうカイには目もくれていない。
 ソルは懐を探りながら、ぼやくように言った。
「散れよ。・・・うざってぇ」
 短い一言であったが、男たちは誰も逆らわなかった。言われるままにそれぞれ踵を返し、後ろを振り返る事もなく足早に立ち去っていく。
 あっという間に、場に静寂が戻った。
 後に残されたカイが半ば呆然として小さくなっていく男たちの後ろ姿を見やっていると、いつの間にやら取り出した煙草に火を点けたソルが、大木の幹に背を預けながら呼びかけてきた。
「おい、クソガキ」
「なっ・・・!」
 挑発しているとしか思えない呼び声に、カイは勢い良くソルを振り返った。
 が、当のソルはカイの反応には目もくれずに空を見上げ、のんびりと煙草を咥えて深く紫煙を吐き出している。落ち着き払ったその様子に、怒る事も馬鹿馬鹿しく思えてカイが押し黙ると、ソルはそこでちらりとカイに視線を投げやった。
「あの程度で熱くなるんじゃねえよ。煩くて寝れやしねぇ」
「・・・・・・」
 ソルの言わんとした事を理解して、カイは言葉を詰まらせて俯いた。
 彼ほどの実力者なら、大きな法力を使役しようとすればそれを気配で感じる事が出来る。彼は自分と男たちとの言葉のやりとりにではなく、自分が放とうとした法力による空気のざわめきに目を覚ましたのだろう。
 確かにあの程度のことで我を忘れかけた自分は、まだまだ子供なのだろうと思った。返す言葉も見つけられず、カイは代わりに溜め息を吐き出した。
 ソルの言い様は酷いものだと思うが、今回の事は窘められても当然だ。相手はおそらくは志願兵で、法力に関しては訓練もしていないような、完全に無防備な人間ばかりだった。下手をすれば、怪我程度ではすまなかったかもしれない。
 それに、とカイはゆっくり顔を上げてソルを見た。自分とソルとの関係を誤解していた男たちの言葉を思い出す。
 この男が元よりそういったやっかみに動じない人間だとは言え、男と噂にされるのはさすがに気分が悪かっただろう。この一件については、知らなかったとはいえ完全に自分に非がある。
 カイは一度深く息を吸ってから、それを吐き出すのに任せてごく小さく呟いた。
「・・・すみませんでした」
「何が」
 目を伏せて煙草を吹かしていたソルが、怪訝そうな目をカイに向ける。謝られた意味がわからない、と眼差しで問い掛けてきたソルに、カイは気まずげに小さく首を傾けた。改めて口にするのも、正直馬鹿らしい気もしたが、とりあえず言葉を注ぎ足す。
「私と、その・・・関係を持っていると、噂されているみたいで・・・」
「・・・今更だろうが」
 大仰に溜め息を吐きながら、知っていた、と呆れた呟きを漏らしたソルに、カイは瞠目する。つまり、知らなかったのは自分だけという事だろうか。確かに自分は、この手の噂には疎いけれど。
 気を取り直して、カイは小さく頭を下げもう一度謝罪した。
「すみませんでした。まさか、あんな誤解をされているとは・・・思っても、見なかったので」
「関係ねえな」
 予想通りの、まるで他人事のような返答にカイは苦笑する。あっさりとした物言いに、気持ちが少し軽くなった。彼にそういうつもりはないのだろうが。
 僅かに表情を緩ませたカイに、ソルは短くなった煙草を吐き捨てて呟いた。
「てめぇは違うだろ?」
「はい?」
 無造作に捨てられた煙草に顔を顰め、それを注意しようと口を開きかけたカイは、それを遮るソルの声に目を瞬かせた。
 意地悪く微笑んだソルは、不意にカイの顎を取って顔を近付けた。身を引く間もなく腰を引き寄せられ、体が密着する。煙草の匂いのする吐息を唇や頬に感じ、カイはただ目を見開いてソルを見つめた。
 顎に添えられた手は、意外なほど冷たい。その冷たさが、カイの思考を鈍らせた。
 ふと戦場での男の姿を脳裏に閃かせたカイは、ぼんやりと思う。―――鮮やかに燃え上がる炎を操るこの手は、その炎と同じに熱いものだと思っていたのに。
 抵抗もせず、碧く透明な双眸でぼんやりと見上げてくるカイを、ソルは笑んではいてもやはり冷たく冴えた眼で見下ろした。
「悪いと思ってんならもう付き纏うな。妙な誤解はてめえの名前に傷が付くだろうがよ、守護神さま?」
「・・・っ」
 嘲られるような響きで呟かれた呼称に、カイは痛烈な皮肉を感じてさっと頬を染めた。
 カイが口を開くより早くソルはさっと手を引き、細い体を突き飛ばすようにして身を離した。軽く肩を押され、咄嗟の事に対応できなかったカイは、数歩よろめいてソルとの距離を広げた。
 返答を待つ様子もなく踵を返した、拒絶だけを感じさせる背中を、カイは声も発する事も出来ずに見つめる。
 呼び止める事も、追いかける事も、出来なかった。
 付き纏うな、と冷然と突き放すソルの言葉が、いつまでも胸に残っていた。


 街の巡回に出たカイは、視界の端に見慣れた影を見つけて立ち止まった。
 本部に程近いこの街では、騎士団の人間を見かける事はそう珍しくはない事だった。短い休息を街で過ごす者も多く、また妻子や恋人を住まわせている者もいる。
 だが、この男に関しては、そのどちらにも当てはまらない。カイの知る限りでは、休息の時間が与えられても領内に留まり、いつものように人気のない場所で過ごしている事が多いようで、街に出ていた事は殆どなかったはずだった。
 カイは、何とはなしに男を見つめた。
 視線に気付いていないのか、男はカイを振り向く事はなかった。特に目的地がある訳でもないらしく、足取りもゆったりとしている。煙草を燻らせ、どうやら街外れへと向かっているようだ。
 足の向く方向にあるものを思い返したカイは、成る程、と納得した。街外れには、陽が高いうちから空いている酒場も多い。
 男が酒を好んで飲むのかどうかはカイの知るところではなかったが、そうだとしてもおかしくはない。彼は立派に成人しているのだ。そういった個人的な嗜好にまで口を出すつもりは、毛頭なかった。ましてや休息の時間であれば尚更である。
 彼にだって、息抜きは必要なのだろう。そう結論付けて男から目を逸らそうとしたカイは、不意に男に近付く人影を認めて、また視線を固定した。
 影は、女性だった。その容貌に、カイは思わず顔を赤らめてしまう。
 女は胸元の大きく開いた、体のラインのわかる扇情的な衣服を纏い、遠目にも鮮やかな赤い紅を刷いていた。ごってりとした装飾品が耳元に腕にと絡み付いて、一目で女がどんな職業の人間なのかが知れた。
 その豊かな胸を強調させるように腕を組んだ色白の女性は、柔らかなウェーブのかかったやや色の濃い金の髪を、豪奢に波打たせて男に近付いた。一挙一動、男を見上げるその仕草にも、計算された艶かしさがある。
 一瞬は恋人かと疑ったカイだが、女が男を見る目はもちろん、女を見下ろす男の目にもそういった甘い感情は見られない。
 恋愛沙汰に鈍いカイにも、それがわかった。勝気そうな女の纏う雰囲気は、あまりにも淫が強すぎる。
 男の腕に自らのそれを絡みつけた女は、背伸びして耳元に唇を寄せ、何事かを囁きかけた。男は女を振り払う事もなく、口元に薄い笑みを浮かべて鷹揚に頷いてみせる。女の整った表情が、艶めいた色を帯びて微笑みに変わった。
 女は媚びた眼差しで男を見つめると、豊満な肉体をさらに男の逞しい体にぴったりと寄り添わせた。体の向きを変え、細い路地へ入ろうとする二人を、カイは瞠った瞳で眺めやる。
 『交渉』が成立したのだ。そうと判じた瞬間、自然と足が地面を蹴っていた。
「―――ソルっ!」
 声が空気を切って、男を振り向かせる。駆け寄る少年の姿を認めて、赤い瞳が不機嫌に歪んだ。腕に体を絡ませていた女もつられて振り返り、青い瞳を丸くしてカイを迎えた。
 カイは出来るだけ女性の肌を見ないように、真っ直ぐソルに視線を固定した。
「何をしてるんですか!」
「見りゃわかるだろうが。女を買ったんだよ」
 ソルは悪びれた風もなく、さらりと告げた。
 あまりに自然と答えられて、カイは言葉を詰まらせた。
 娼婦の存在については、法で禁じられてはいても、犯罪として扱われる類の事ではなかった。必要悪、といったところだろうか。街にこうして一目見て娼婦とわかる人間が立っていても、金のやりとりが目撃されても、誰もそれを注意する事はない。
 カイにしてみれば、金で人間をやりとりする行為などもってのほかであったが、それでもその制度を受け入れている人間が決して少なくはない事も知っていた。聖騎士の中にも、特に強く規律に縛られない志願兵の中には多く、女性を買いに街へ出ている人間もいるのだ。
 公然の秘密、とまで大それた事ではないけれど、特に金銭やその他のことで問題も起きない限りは、咎めたてされることではなかった。
 全てを否定するつもりは、カイにもない。頭ではわかっているのだ。けれど感情はどうしようもなかった。自らの体を金に換える職業に身をやつした彼女らに、嫌悪ではなく同情に似たものを強く抱いてしまう。
 反論の言葉を見つけられず口篭ったカイに、ふと女はソルの腕から体を離すと、顔を近付けてカイの顔を覗き込んだ。
 ふわり、と鼻をつく強い香水の匂い。甘ったるいそれにさらに顔を赤らめたカイは、反射的な動きで近付いてきた女から一歩後退った。
 怯えた風にも見えるその様子に、女は困ったような顔をして微笑んだ。
「可愛いわね、女が怖い? 別に取って喰いやしないわよ?」
「い、いえ・・・すみません」
 小さな肩をさらに小さく竦めてカイが頭を下げると、純朴な反応に女はころころと涼やかな笑い声を立てた。高く耳障りのいい声音は、ますますカイを萎縮させる。
 どうしようもなく口篭ってしまうと、ふと細くしなやかな腕が伸び、俯いたカイの顎をそっと持ち上げた。
 女の青い瞳と、正面から視線が交わる。カイが驚いたような顔をすると、女は淫蕩にその眼を細めてみせた。赤い唇が言を紡ぐ。
「女を知らないのね。あたしが筆下ろしさせてあげようか、坊や?」
「けっ、結構です!」
「ふふ、つれないこと」
 慌てて頭を振って手を払い後退ったカイに、女は特に気を悪くした風もなく微笑んだ。
 カイに近寄る事はせず、女は肩越しに煩わしそうな顔をして立つソルをちらりと振り返り、そうした上でカイに視線を戻す。
「可愛い坊や、あたしはこの人を気に入って声をかけたの。この人はそれを受け入れた。別におかしな事ではないでしょう? お金は、付属品みたいなものよ」
 艶かしい微笑みの表情で、女は諭すように囁いた。口調は優しいが、もう邪魔をするな、と言われている事はカイにもわかる。カイは唇を引き結んで女を見つめた。責める眼差しにも、女が笑顔を崩す事はない。
 女の言い分が、全くわからないという事はない。体を売る事を生業とする彼女にすれば、これは死活問題でもあるのだ。そしておそらくは、これまでにも自分と同じに正論を振りかざす人間を、彼女はその微笑みで撥ね退けてきたのだろう。
 女の笑顔には、確かな気高さが感じられた。彼女は彼女の誇りを持って生きている。その種類は違えども、誇りの在り様は自分と何ら変わるところはない。
 それでも納得は出来なくて、カイはなおも食い下がった。
「で、ですが・・・お金で女性をやり取りするなんて、そんなこと・・・」
「っざてぇな」
 ずっと黙ったまま女とカイとのやりとりを聞いていたソルが、低く不機嫌な声で割り込んできた。
 女の肩を引き、自ら一歩進み出てカイの前に立つ。咥えた煙草もそのままに、ソルはカイの制服の襟元を掴みあげて顔を近付けた。
 間近に鈍く光る紅蓮の瞳。噎せ返る煙草の匂いに顔を顰めたのも束の間、ソルは舌打ち混じりにぼそりと呟く。
「だったらてめえが代わりに付き合うか?」
「・・・な・・・?!」
 喉元を押さえられた苦しさだけではなく、声が情けなく掠れた。
 限界まで目を瞠って、カイはソルを見た。問い返す事も出来ずに、瞳を覗き込む。炎の鮮やかさでカイの視線を受け止める双眸には、別段冗談を言っている風はない。
 ソルは何でもない事のように言い捨てた。
「どうせ突っ込むだけだ、そう変わらねえだろうしな」
 あからさますぎる言い様にカイはかあ、と頬に朱を散らせたが、ふと視界に入った女が、怒りもせずに平然としていることにさらに驚いた。侮辱としか思えない言葉にも、女は動じもしない。まるでそれが当然の事の様に。
 カイはゆっくりとソルに視線を戻した。呑み込まれそうな赤い眸はやはり透明で、そして―――僅かだけ、欲情の濁りがある。
 初めて見る色に、カイは体が熱くなるのを感じた。その一部が、確かに自分に向けられたものなのだと思うと、眩暈に近い感覚が意識を混濁させた。
 向けられた眼差しの熱さと美しさに、体と心が熱く灼かれる。
 『それ』は、愛情や好意など欠片もない、本能の部分の欲望でしかないのに。
 ただ呆然とソルを見つめていると、ソルは身動き一つしないカイに面白そうに言を吐き出した。
「何だ、嫌じゃねえのか? なら俺に足開いてみるか、坊や?」
「っ・・・!」
 からかう声に、ようやく意識がはっきりとする。カイは弾かれたように腕を振り上げ、襟元を掴んだままだったソルの手を払って体を離した。
 小刻みに震える腕をもう片腕で無理に押さえつけて、カイは牽制するようにソルを睨み付けた。しかしそれも、熱に侵され潤んだ、力無いものでしかなく、ソルは薄ら笑いでそれを受け流した。カイはきつく唇を噛む。もう、自分が何を言ったところで、男には届かないだろう。
 苛立ちと、怒りと、焦燥のような感情が、綯い交ぜになって全身を駆け巡る。自身で意識もしていない、理解も出来ない感情の波に、カイはただ押し流されるだけだった。
 ソルを見る事はもう出来ず、ふと女に目をやると、女はカイの視線を静かに受け止めて、青い瞳に一瞬だけ穏やかな、慈愛の色を閃かせて呟いた。
「ねえ坊や、領内に帰りなさいな。坊やのような綺麗な子は、あたしみたいな・・・体だけで一時の愛を得ようとする女がいる事なんて、知らない方が良いのよ」
「・・・」
「帰りなさい」
 ひどく優しい声でそう言った女は、瞬時にそのたおやかな表情を消し、再び娼婦のそれに戻して、ソルの腕に体を寄せた。ソルは特に女を抱き寄せる事はしなかったが、煩わしそうな様子を見せるでもない。
 自然と並び寄り添う二人の姿を興奮のために潤んだ瞳に映して、カイはぎこちなく息を吐いた。掠れた呼吸のせいでなく、胸元が小さく痛みを訴える。
 唇を戦慄かせ、言葉どころか吐息さえままならない状態のカイに、ソルはもう取り合う様子もなく、あっさりと背を向けた。
 左腕に娼婦を纏わりつかせ、もう片手を軽く上げる。肩越しに、赤い双眸が揺らめいた。
「じゃあな、坊や」
 呟きを残して、ソルは女を伴い裏路地へと消えていく。立ち竦む自分の気配を感じていないはずはないだろうに、ソルは二度と振り返る事はなかった。
 いつか見た、拒絶だけを感じさせる背中だった。
 ソルの姿が視界から完全に消えても、カイはしばらくその場から動く事が出来なかった。


 自室に戻ったカイは、重苦しい上着を乱雑に椅子に投げ出し、着替えもせずにそのままベッドに身を投げ出した。シーツはひんやりと冷たく、火照ったままの頬に心地がいい。
 それでも、全ての熱を吸い取るには足りなかった。肌の触れた部分はすぐに体温と同じ熱を持ち、どうしようもなく燻る微熱をカイに知らせる。
 ごろり、と身を返して天井を見上げたカイは、熱く潤んだ吐息を漏らした。
 幾度となく脳裏を掠めていくのは、ソルの姿だった。鼓膜の奥には、低く力のある声が鈍い痛みを伴って繰り返されている。その響きがまたさらに、カイの体を熱くさせた。
 全身を侵す熱が煩わしく、カイはそれを忘れようと目を閉じる。
 だが、闇の中に浮かび上がってくるのは、熱を追い立てる赤い瞳だった。
 初めて自分を映した、紅蓮の眸。欲情の色の濃いその瞳を、あの瞬間、自分は何故、綺麗だと思ってしまったのか。
 いつかの男たちと同じ、醜い欲望に彩られたその瞳を。
「・・・どうして」
 呟きが口をつく。いつかは、強い嫌悪に身を襲われ、吐き気さえ感じたというのに。
 腕を顔に押し当てたカイは、なおも暗い淵に意識をやろうとしたが、それは上手くはいかなかった。どんな闇の中にも、闇の中だからこそ、炎の紅は鮮やかに燃えてカイを灼きつくそうとする。
 カイは薄く目を開いて、自分の手を宙にかざした。未だ成長途中にある、白くほっそりとした手は、一見した所女性のそれのようだ。
 じっと眺めながら、また、思考がソルヘと及ぶ。
 戦場に共に出た事は何度もある。その中で、見るともなく視界に入ってきた、大柄の剣を握る手は、綺麗に筋肉の付いた彼の体躯に相応しく、がっしりとした大きな手だった。自分のそれとは比べようもないような。
 大きな手だ、と思った。剣を握るに相応しい、強い手だと。ただそれだけだった、あの戦場では。
 浮かせていた手を力なくベッドに落とし、カイはぼんやりと考える。
『あの手で・・・女性を、抱くんだ』
 人気の消えた静寂の場所で、荒々しく自分の顎を掴んだ手の感触を思い出し、カイはそれを振り払うように小さく頭を振った。しかし男の手の強さと冷たさは、時を置いた今も鮮明に肌に生々しく残っている。
 カイはシーツにくせのない金糸の髪を綺麗に揺らめかせ、ソルと、共に消えていった女を思った。
 彼女を、ソルはどんな風に抱くのだろう。
 剣を扱い幾千幾万もの魔獣を屠ったその手で、どんな風に女に触れるのだろう。
 息もつかせぬ激しさで組み敷き犯すのか、それとも壊れ物に触れるように優しく抱き締めるのか。
 いつも冷静なあの赤い瞳は、行為のその時には、どんな色を帯びるのだろうか。
『・・・どんな風に』
 思考が熱に鈍く霞んでいく。悠然と自分を見下ろした赤い瞳は、どうしても瞼の裏から消えてはくれない。
 呪いの様に、身を、支配する。
 それが何であるのか、カイ自身よくわかってはいない。ただ漠然としたものが、胸から全身へとゆっくり広がっていくのを、まざまざと感じた。
 抗いようもないものに身を支配されながらも、カイは完全には理性を捨てきれず、部屋の冷たい空気を深く吸って、ゆっくりと吐き出した。
 だがその行為も、カイに自らの熱を自覚させただけだった。零れる吐息に混じる喘ぎに近い甘やかな音を遠くに聞きながら、カイは一度強く目を閉じ、そしてまた薄く開いて何もない宙空を見やった。
 霞んだ視界を、また男の残像が掠めていく。
『あの、手で・・・』
 吐き出す息が熱と、強い淫を含んでいるのが自分でもわかった。体の中心が甘く疼いて、刺激を求めている。
 異常な事だと、犯してはならない禁忌であると意識が警告を発しても、幼いカイにはもう、こみ上げてくる欲求に逆らう事は出来なかった。
 カイはゆっくりと、ぎこちない動きで自らの下肢に手を伸ばした。カチャリ、とベルトを外す音が、部屋の静寂を侵し清浄な空気を淫らなそれに塗り替えていく。
 前を寛げ、冷たい空気に触れたそれを、カイはおそるおそる自分の手に包み込んだ。触れてもいなかった欲望は、すでに濡れ勃ちあがりかけて、カイに自らの興奮を伝えた。
 指を絡ませるとそれだけで、自身はいやらしく、びくん、と震える。痺れるような甘い感覚が全身に広がった。震えたつま先がシーツを蹴り、衣擦れの柔らかな音が耳朶を掠める。
 しかし淫猥に濡れた水音より強く、抗いようもなくカイを煽るのは、耳の奥に残る男の声だった。
『足開いてみるか、坊や?』
 揶揄うように囁かれた、声。
 不意にその声を、男の苦い匂いのする吐息を身近に感じて、カイはそっと膝を開いて絡ませた指先に僅かだけ力を込める。
 乱暴に手を上下させると、苦痛と、それを凌駕する快楽、そして罪悪に身が苛まれた。
 背徳の行為と理解していても絡んだ手の動きは止められない。まだ躊躇いの残る指先の動きはやはりぎこちなく、稚拙な愛撫ではあったが、それは確かにカイを追い詰めていった。
「ん・・・っ、あ・・・」
 甘ったるい嬌声が、やけに大きく耳に響いた。浅ましい声を嫌って、カイは唇を噛み締めるが、しかし湧き上がってくるものを押さえることは出来ない。
 快楽に濡れた吐息に混ぜて、カイは切なげに男の名を呟いた。
「ソル・・・」
『坊や』
 脳裏に閃く、自分を呼ぶ男の声。
 男が自分に呼びかける声で記憶しているのは、それだけだった。彼は初めて出逢ったその時から、誰憚る事無く自分を『坊や』と呼ばわった。どんな抗議にも、耳を傾けもせずに。
 ―――名前さえ。
『まだ・・・呼ばれた事がない』
 蕩けた意識の隅で、冷静にそんな事を考える。これまで、男の目に自分が映ったこともなければ、名前を呼ばれた事もない。
 例えばその腕に抱かれたとしたなら、彼は、名を呼んでくれるのだろうか。
『私を・・・見て、くれるだろうか』
「ふ・・・っく」
 ずるり、と指先が先端を滑った。濡れた感触に背筋を電流が駆け抜けたが、それでも絶頂には至らず、カイは苦しげに息を吐いて感覚を外に逃がした。それでも残る熱に堪らなくなって体を捩ると、それを嘲笑うかのようにベッドが高く軋む。
 先走ったものに濡れた手を、カイはもう一度ゆるりと動かす。甘い快楽はあっても、それはひどく冷めたもので、カイを昂ぶらせるにはいたらない。
 もう一度苦々しく溜め息を吐いて、カイは欲望から手を離した。ぐたり、と体を投げ出しシーツに顔を押し付け、絶望的な思いに目を閉じる。
 気が、付いてしまった。
 この体が浅ましく何を望んでいるのか。胸に宿る痛みが何であるのか。ソルに触れたあの女性に、自分はどんな感情を抱いたのか。
 もう逃げる事も見ぬ振りも出来ない。
 自分が、ソルを、どんな目で見ているのか。
『・・・私、は・・・!』
 きつくシーツを握り締めたカイは、こみ上げてくる衝動を堪える事も出来ず、閉じた瞳から透明な雫を零した。暖かな涙が頬のラインを辿ってシーツに落ち、吸い込まれて染みを作る。
 後から溢れてくるものも流れ落ちるそのままに、カイは小さな子供のようにしゃくりあげた。殺し損ねた掠れた声が、切なく部屋に広がって鼓膜に反響し、カイをさらに追い詰めていく。
 掴んだシーツを口元に引き寄せ、かちかちと音を立てる歯でそれに噛み付きながら、カイは震える小さな体を丸めて泣き続けた。
 全身から水という水が全て流れてしまえば。そうして共に、この思いも零れ落ちてしまえばいいのに。
 望みは神に届くはずもなく、涙が止まる事もなければ男への思慕が消えてしまう事もない。胸の痛みは現実のものとして、カイを苛むばかりだった。
 緩く頭を振り身動ぎしたカイの胸元から、不意に銀の鎖の冷たい感触と共に、ロザリオがシーツの上に零れ落ちた。
 束の間涙を忘れ、濡れた顔はそのままに、カイはそれを眺めやった。
 窓から柔かく差し込む光に晒されたそれは、清らかで美しく、だがそれに自身の心を縛る力は、もう、ない。
 先走りに汚れた手を鎖に絡め、カイはぶちりとそれを引き千切ると、無造作に床に投げた。乾いた音を立てて落ちたロザリオからはどうしても目を離せぬままに、カイは男の名を呼ぶ。
 神でなく信仰でなく、自らから羽根をもぎ取り、欲望をもって地に縛りつける、たった一人の男の名を。
「・・・ソル・・・」


「―――ソル」
 静かな呼びかけに、男の足が止まった。
 煩げに眉根を寄せて振り向いたソルを、カイは湖面の静けさを讃えた透明な眼差しで見つめる。
 あまりに感情の抑揚の薄いその瞳に、ソルは訝しげな顔になった。少年が自分を呼び止める時というのは、十中八九小言だ。こんな風に、穏やかに呼びかけられた事は初めてだった。
 ソルが口を閉ざして見下ろしてくるのを、痛々しいほどに表情を凍らせたカイは綺麗に受け流し、脈絡もなく唐突に、ぽつりと尋ねた。
「街へ、行くんですか」
「勝手だろ」
「・・・女性を買いに?」
「・・・・・・」
 ソルは僅かに眉を顰めた。カイの口調には咎める響きはなく、なおも静けさを保ったままで、それがソルに強い違和感を与えた。
 碧玉は透明で美しかったが、感情の色がないそれは、まるで硝子玉のようだった。
 しばらくカイを見下ろしていたソルは、しかしそれもどうでもいい事かと目を逸らし、面倒そうな溜め息に混ぜて呟いた。
「どうだって、てめぇには関係ねえだろうが」
 言葉を撥ね退ける強い視線に、ついにその瞳が揺らいだ。瞬時に濡れた色を帯びた瞳は軽く瞠られ、あからさまに傷付いた顔をしたカイは、それを見られる事を嫌ってさっと俯いた。
 そうしてまた口を閉ざしたカイに、ソルは苛立ちさえ覚えた。少年のこの不可解な言動の意図を、まるで掴む事が出来ない。新手の抗議行動かとも思ったが、そうでない事は尋常でない彼の様子からも知れた。
 だが子供の癇癪に付き合ってやるつもりもない、とソルは広くはない廊下の中央で立ち尽くすカイのその脇にするりと体を滑らせ、肩をぶつけながらも特に謝るでもなく通り抜けた。
 ソルは、小さな衝突に体を揺らしそれでも何も言わないカイを、もう顧みるでもなく足を進めた。高い足音が廊下に響く。
 無言のまま立ち去ろうとしたソルを引き止めるように、カイは震える言を紡ぎだした。
「私を抱いて下さい」
 耳によく響く、まだ幾分高めの少年の声が、ソルの動きを止めた。
 足を止めたソルは、ゆっくりと体を振り向かせた。ソルが自分の背中を見やる気配を感じ、カイは自らもまた体の向きを変え、再びソルと向かい合う。
 だらりと伸ばした両手が、震えているのがわかった。おそらくソルにも気付かれているだろうとは思ったが、それでも構わない、と、カイは深く息を吸った。
 吐き出す息にのせて、カイは囁くように言った。
「あなたの好きなように・・・娼婦のように扱ってくれて、構いません・・・」
 紅の瞳が大きく瞠られ、珍しく感情を露にする。
 しかし顔を上げる事も出来ないカイは、ソルの様子など気付きもせずに、俯き地面に視線を落としたまま、消え入りそうな声で続けた。
「・・・好きです」
「・・・・・・」
 ソルが息を詰める気配を、ごく近くに感じた。それでもカイは言葉を止めず、男をさらに怯ませるかのように、再び口を開いた。
 ゆっくりと、一字一句を切るように。
「あなたが、好きなんです、ソル・・・」
 吐き出した声は弱く、甘さも艶もない。切羽詰った響きだけがあった。
 気を抜けば音を立てそうなほどに震える歯を噛み締めて、カイは途切れがちに呼吸し、声と気持ちとを吐露する。
「私を好きになって欲しいなんて、言いません、から・・・だから」
 カイはそこでようやく顔を上げてソルを見た。黙って告白を聞きとめていたソルは、やはり普段と同じ冷たい眼でカイの視線に応じる。
 あからさまな拒絶はないが、肯定もない。真意を量りかねている、といった風のソルの様子に、カイは一度唇を噛んだ。
 指先が、足が震える。どんな反応にも覚悟はしていたけれど、それでも、弱い自分は拒絶の恐怖に怯えるばかりだ。
 こうして男の前に立っている今も、カイは、何もかもが恐ろしくて堪らなかった。ソルへの思いも望む行為も、それらは全て神への背徳で、何より自分は、人であることより人々の剣であり盾であることを望まれたモノだ。全てを捨てて自らだけの欲望に堕ちることなど、許されるはずもないということは、よくわかっている。
 けれどもう、溢れ出してしまったものを止める術は、カイにはない。
 気が、付いてしまったから。触れたいと、触れて欲しいと。
 何の代わりでも、例え玩具のように扱われたって構わない。ソルが誰か他の人間に触れる事を思えば、どんな事にでも耐えられた。
 男娼と蔑まれても、それでも。
『私を見てくれるなら』
「抱いて下さい・・・お願いです、ソル・・・」
 切なげに繰り返された言葉に、ソルはしばし沈黙した。沈黙は刃となってカイを傷付ける。心の最も奥深い部分が血を流すのを感じたが、カイはそれ以上は何も言わずにソルの言葉を待った。
 永遠にも近い時間が流れたように思われた。
「いいぜ」
 やがて与えられたソルの返答はほんの一言で、あっさりとしたものだった。カイは弾かれたように顔を上げたが、ソルは平然としたままで表情一つ変えてはいない。
 聞き違いだろうか。不安げに瞳を揺らめかせてソルを見つめる。男の瞳はいつもと同じに、燃え上がる赤ながらひどく冴えた色をしていた。
 カイは小さく男の名を呟いた。
「・・・ソル」
「前にも言ったろ、突っ込むだけならそう変わらねえってよ。金がかからない分、坊やの方がましってもんだ」
 呼びかけにソルは応じず、返された言葉は刃のように鋭くカイの胸を抉った。
 屈辱に顔を赤らめ、全身を引き裂かれる痛みにカイは肩を揺らしたが、何も言わず目を伏せる事でそれに耐えた。
 反論もなく激昂するでもないカイの様子を、ソルは面白そうに眺めた。炎の双眸が酷薄な笑みに歪む。
「来いよ、坊や。お望み通り、可愛がってやる」
 言葉の内容とは裏腹に、吐き捨てるように流れでたソルの声は、やはり冷たく素っ気無い。
 おそらくは恐怖にであろう、その細い体が震えるのを見て取ったソルは、それを無視して薄く笑い、カイに向かって手を出した。自ら足を踏み出す事はせずに、カイが動くのを待つ。
 カイは視界にソルの手を捉え、しばしそれに見入った。
 残酷な言葉と共に差し伸べられた、大きな手。
 かつて憧れ、そして今恋焦がれるそれを伏せた瞳で見つめながら、カイはもう躊躇わずに手を伸ばした。
 触れた指先は、彼の瞳と同じに、冷たかった。
 しかしこの温度こそ、自分が望んだ事なのだ。絡めた指の感触に目を細めたカイは、少しずつゆっくりと顔を上げて、ソルの瞳と見つめ合う。
 灼き尽くされそうな、深く紅い眼。
 本当は、怖い。きっとその腕に抱かれるその瞬間も、抱かれたその後も、自分はこの恐怖を捨てる事は出来ないだろう。
 それでもカイは、切なげに微笑んで自らの心の在処を明らかにする。
「・・・好きです、ソル・・・」
 繰り返される幼い告白に、男はそれを受け止める風もなく、曖昧に微笑んだだけだった。
 紅蓮に燃える双眸には、ただ、欲望の色だけが燻っていた。




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