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   きみというひかり
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 ―――感情が、抑えられない。

 十五年ぶりの再会から、別れ。彼に向ける思いが、友情ではなく恋情だと気が付いたのは、彼が姿を消してからだった。
 失って初めて気が付くというのも陳腐な話だけれど、ほんの一言だけが書かれたメモを残して彼が目の前からいなくなった時には、目の前が闇に閉ざされたようだった。突然の失踪を知った直後の事は、自分の事ながら記憶がはっきりとはしない。怒ったのか悲しんだのか。愕然とした記憶だけが残っている。
 裏切られた、と思った。
 それでもはじめのうちは、彼の身を案じて走り回った。心当たりを片っ端から訪ね、果ては身元不明の死体まで調べた。彼ではないことを確認する度、安堵し、また不安になって走り回る。その繰り返しだった。
 手を尽くしても彼の痕跡は見つからず、やがて全てを諦めた。諦めるしかなかったのだ。
 そうして一年が過ぎて、再会した彼に抱いたのは、勿論無事であった事への安堵と嬉しさもあったけれど、執着に近いものが大きかった。今こうして目の前にいても、次の瞬間にはまた見失ってしまうのではないかという、強い不安から来る身勝手な醜い感情。自分は彼の事を好きだけれど、彼はそうではないのだ。彼は自分の事など、ただの友人としてしか見ていない。下手をすればそれ以下かもしれない。身を焦がすこの思いは、どこまでいっても一人よがりの独占欲でしかないのだ。
 けれど、こみ上げるものをどうしたらいいのか、自分でもわからなかった。
 ただ、彼の事を、離したくないだけなのに。



 予想通りに階段を上がってきた影が、驚きに動きを止めた。
 薄明かりの下に現れた御剣の姿を、成歩堂は無表情に見つめた。切れ長の瞳を瞠って、御剣は戸惑いながらもその視線を受け止めた。吹き込む冷たい風にコートの前をかき合わせながら、低い声で成歩堂を呼ぶ。
「こんな時間にどうした?」
 時刻は既に日付を跨いでいて、既に人の気配もなくしんと静まり返っているマンションに、耳通りのいい声が凛と響いた。こういったプライベートの時間でも、御剣の声は法廷と変わらずに強い力がある。とくん、と胸が騒ぐのを感じて、成歩堂は小さく笑った。声を聞くだけで心を揺らされるだなどと、本当にもうどうしようもないと思った。どうしようもなく、彼に囚われてしまっている。
 コートのポケットに手を突っ込んだまま、壁に背を預けて立っていた成歩堂は、す、とそこから離れ、階段の入り口に立つ御剣の傍まで寄った。小さく首を傾けて、何気なく尋ねた。
「仕事、長引いたみたいだね」
「・・・ああ。いつもの事だ」
 僅かの間を置いての返事は、唐突な問いかけに驚きはしたようだが、淀みないものだった。表情にも特に変化はなく、成歩堂はごく僅かだけ眉を顰めた。
 裁判を終えて、真宵も無事に戻ってきた。その祝いのパーティを、彼は仕事が残っているからと中座した。彼が常に忙しく走り回っていることは誰もが知っていて、不思議に思う者はいなかったようだが、本当の理由が仕事などではなかったことを、成歩堂は知っている。何度も法廷で弁を交えた、勝気な瞳の検事の姿が脳裏にちらついた。
 法廷を終え、彼女が捨てるように投げつけてきた鞭を御剣に渡したのは、他でもない成歩堂自身だった。パーティの最中に不意に反応した発信機。御剣がそれを見て何を察したのか、どこへ向かったのか、分からないはずもない。
 御剣の師であり父の敵でもあった男の娘。狩魔冥。彼女は御剣に対して、敵意以外のものをも抱いているようだった。
 そして御剣も、彼女を決して恨むなり憎むなり、疎んじていた風ではなかった。今回の法廷の直前、妨害工作の一環として銃で狙撃された彼女を誰より気遣っていたのは御剣だ。病院で彼女の容態を尋ねた時の、珍しく取り乱した様子をよく覚えている。
 成歩堂はふ、と目を伏せて、軽く息を吐いた。体が熱い。反して、思考は驚くほど冷静に、自身の変化を自覚していた。どろどろとしたものに感情が侵されていくのがわかる。けれども、それを抑える術など今更あるはずもなく、また抑えようとも思わなかった。
 怪訝そうな顔をする御剣に、半ば衝動的な思いで手を伸ばした。御剣は不審には思ったようだが特に逃げる事はなく、だらりと伸ばされていた腕を難なく捕らえて、成歩堂は苦く笑って御剣に顔を寄せた。
「君は、そうやって、平気な顔で嘘を吐くんだね」
「・・・」
 明るくそう告げれば、御剣は虚を突かれたような顔になって口を閉ざした。随分わかりやすい反応だ、と成歩堂は口の端を吊り上げる。法廷ではどんな異議も不敵な表情でかわしてみせるくせに、プライベートではつくづく嘘や隠し事に向かない性質らしい。じっと瞳を覗き込むと、御剣はばつが悪そうに視線を伏せた。
 それでも弁明の言葉もなく、本当のことを話そうともしない彼の態度に、ざわりと感情が波立った。腕を掴む手に力が篭る。指先が小刻みに震えた。
 言葉が、自然と滑り出た。まるで呪いのように。
「・・・そうしていつかまた、僕のことも置いていくんだ」
「成歩堂?」
 流石に様子がおかしいことを察したらしく、顔をあげた御剣が呼びかける声には、戸惑いと不審の響きが強かった。気遣わしげに覗き込んでくる瞳を、成歩堂は正面から受け止めて、そして、笑った。
「なる・・・ッ」
 呼びかけを遮るようにして、成歩堂は不意に掴んだ腕を引き寄せた。突然の事に対応できずバランスを崩した体が、がくりと腕の中に落ちる。自分とそう変わらない、綺麗に肉のついた体躯。片腕で御剣の体を支えながら、成歩堂はもう片手を壁に叩きつけた。がちん、と硬い金属音が響き、続いて聞こえて来た扉の開く音に、腕の中の体がはっと強張るのが分かった。
 エレベーターが、そこにぽっかりと入り口を開けている。
 彼の悪夢の象徴。父親を失った場所。目を瞠ってエレベーターを凝視し、完全に動きを止めてしまった御剣を、成歩堂はそのまま中へと突き飛ばした。
「っ・・・!」
 ひゅ、と息を呑む音。押し込まれるまま狭い空間へと足を踏み入れた御剣は、突き飛ばされた勢いのせいではなく、全身から力を抜かれてしまったかのように、がくりと膝を付いた。逃げるどころか立ち上がる事も出来ないでいる御剣を冷酷に見下ろしながら、成歩堂は自らもエレベーターに入り込んで扉を閉めた。
 無機質な音と共に空間が断絶され、そこでようやく御剣は我を取り戻して顔をあげた。床を這うようにして体の向きを変え、出口を塞ぐ成歩堂を、睨むというには弱い、混乱した眼差しで見上げる。
「・・・そこを、どきたまえ・・・!」
 絞り出した声は震えていた。いつものような、他者を威圧する響きはなくて、それでも虚勢を張ろうとする御剣に、成歩堂は静かに問い掛けた。
「怖い?」
「・・・」
「君の悪夢は、全部、僕が取り除いたと思ったんだけど」
 試す口振りで言えば、肩がびくりと揺れた。
 一年前、彼自身が被告として行われた裁判で、長く彼を苛んだ悪夢の正体も何もかも、全てが明らかになった。しかし決着がついたからといって、御剣がそう簡単に全てを忘れてしまえるような器用な人間でない事は、成歩堂もよく知っている。彼は今も、エレベーターにも地震にも強い恐怖を抱いたままなのだろう。父親を失った原因でもあるのだから、無理からぬことだ。
 知っていて尋ねる成歩堂に、御剣はきり、と唇を噛み締めた。床についた手が小刻みに震えている。怒りというよりは悔しさを思わせるその所作を眺めやりながら、成歩堂はすっと膝を折って御剣の前にしゃがみ込んだ。
 視線が同じ高さで絡み合った。近くから覗く御剣の瞳はうっすらと濡れ、頼りなく揺らめいていて、本人に自覚はないのだろうがひどく艶がある。決して線の細くはない相貌もまた、隠しきれない怯えの色に彩られ、それがかえって彼に妙な色香を纏わせていた。普段の彼からは想像も出来ない姿が、昏い興奮を煽る。
 再び伸ばした手を、御剣はやはり払い除けなかった。
 指先が頬に触れ、そのラインを確かめるようにそっと添えられる。掌に彼の体温を感じた。軽く撫でるようにしても、密室内に閉じ込められているという恐怖に混乱しているのか、御剣は身動き一つしない。突然の凶行を咎めるでも責めるでもなく、不思議と透明な瞳でもって、成歩堂を見つめた。双眸には感情の色が薄く、彼が何を考えているのかはよくわからなかった。けれど竦んでいる体と強張っている呼吸とが、彼の恐怖をはっきりと成歩堂へと伝えた。
 今、この瞬間、彼の目に映っているのは自分だけなのだ。
 そう思うと、胸に愉悦が滲んだ。指先で目元を辿りながら呼びかける。
「ねえ、御剣」
 残酷なほどに柔らかな、優しい声。御剣は僅かに眉を顰め、目を瞬かせた。返事はなく、視線だけを真っ直ぐに向けてくるのを受け止めて、成歩堂は続けて口を開いた。
「狩魔冥に会って来たんだろ? だったらどうして、そう言わないの?」
 やや早口に告げれば、御剣は大きく目を瞠った。
 狩魔冥が日本を出たという事は、ここに来る前に検事局に問い合わせて知っていた。そうでなくとも、彼女は鞭を捨てて行ったのだ。武器を手放したという事は、検事である事をも捨てるつもりだったのだろう。そうなれば検事局に戻るはずもなく、日本を出て、国外へ戻るだろう事は容易く予想がついた。おそらくは御剣も、彼女を追って空港へ行っていたはずだ。
 二人の間にどんなやりとりがあったのかまでは、わからない。他意などなく、顔見知りの彼女をただ見送ったというだけなのかもしれない。けれど彼女と会った事を隠されたという事が、成歩堂の胸に影を落とした。
 ―――醜い嫉妬。それは冥に対してだけではなく、彼に関わるもの、触れるもの全てに対してだ。
 嘘を咎められた御剣は、すいと視線を床に逃がした。
「別、に・・・隠していた、訳では・・・」
 言い訳をする強張った声は歯切れが悪く、まるで彼の声とは思えないほどに弱々しかった。密室の恐怖に怯え、それでも必死に応えようとする姿が滑稽で、小さな子供のように震える御剣に、嗜虐心をそそられる。頬に添えていた手をするりと顎に滑らせ、俯きがちの顔をあげさせて、成歩堂は陰惨に笑った。
「後ろめたいような事があるんだ? ・・・もう、子供じゃないんだもんね」
「何を・・・っ」
「こういう事を」
 抗議の声を一言で遮って、震える唇を自らのそれで塞ぐ。揺れる双眸が大きく見開かれるのに構わず、成歩堂は戦慄く唇を巧みに舌で割って、中で縮こまる御剣の舌を絡めとった。突然の行為へ余程驚いたのか、それとも恐怖のせいなのか、抵抗は全くない。成歩堂は激しく御剣の口腔を蹂躙した。
 一方的な口接けの合間に、苦しげな吐息が零れた。それでも抵抗の気配はなく、床についたままの手はそこで緩く握られるだけで、成歩堂を押し退けようとはしなかった。
「ん・・・う」
 零れる声は、彼自身意識しての事ではないのだろうが、ひどく甘い。これまで聞いた事もないような音に、ぞくりと背筋が震えた。
 そうして長いキスから解放した時には、御剣はすっかり息を上げていた。互いの唾液に唇を濡らして、どこかぼんやりとした眼差しを成歩堂に向ける。何をされていたのか全くわかっていないかのような、稚い視線だった。どこまでも清廉で、澄んだその色を、汚して、滅茶苦茶に壊してしまいたくなる。
 指先で唇を撫でて、成歩堂は低く尋ねた。
「・・・こういう事を、彼女と、したの?」
「・・・なる、ほ、どう・・・」
 瞳の奥深くを覗き込んでの質問に御剣は応えず、代わりに切れ切れに掠れた声でもって、成歩堂の名を呼んだ。問いかける言葉の意味がわからないわけではないだろうに、肯定も否定もなく、ただ戸惑いを浮かべた眼差しを向けてくる御剣に、成歩堂はふわりと、場に不似合いな優しい笑みを浮かべて応じた。
「最初からこうしておけばよかった。そうすれば、君を繋いでおけたのに」
 濡れた唇をなぞり、その指でするりと顎のラインを撫でる。御剣の反応は鈍く、僅かに喉を仰け反らせただけで声も漏らさない彼に、成歩堂は露になった白い喉、浮き出た動脈に吸い付いた。
「・・・っ!」
 急所に歯を立てられて、流石に御剣も息を詰めて体を震わせた。恐怖というよりは驚いたような所作だ。成歩堂は構わず、赤く色付いたそこに唇を這わせ、無理矢理に襟元を乱していく。半ば釦を毟るようにして前を開かせて、日に焼けていない綺麗な胸元に舌を滑らせれば、そこでようやく御剣は怯えたように身動ぎした。床に投げ出したままの手を持ち上げて成歩堂の腕を掴み、理性の色を取り戻した双眸でもって睨み付けてくる。
「何をする、放せっ!」
「今更だろ? 何をするのか、わからないわけじゃないと思うけど?」
 鋭い一喝にも構う風もなく、成歩堂は鎖骨に甘く噛み付きながら応じた。
 蹂躙を続ける男の体を押し退けようと動く腕は、しかし全く力が入っていなかった。おそらくは自分でもわかってはないのだろう。意識はしっかりとしているようだが、体は未だ過去の恐怖に竦んだままで、そう体格も変わらない男一人跳ね除ける事も出来ないでいた。腕を掴んだ指先さえ震えている事に、御剣は気が付いているのだろうか。滑らかな肌に唇を滑らせながら、成歩堂はくっ、と喉を鳴らした。
 白い肌に強く吸い付いて跡を残し、赤く鮮やかに色付いた徴を丹念に舐めあげる。合意のない、無理矢理の行為である事を忘れるほどに丁寧に愛撫を施していると、ふ、と視界が暗く閉ざされた。
「な・・・っ?!」
 引き攣った声をあげて、御剣は天井を見上げた。狭い密室を照らしていた人工の灯りは予告もなく消えて、室内に残されたのは小さな窓から僅かに覗く通路を照らす電灯の光と、頼りない月明かりだけとなった。
 男を押し退けようと動いていた手が、途端に成歩堂にしがみ付く。がくがくと大きく震える御剣の体を抱きとめてやりながら、成歩堂は緩慢な動きで上を見た。蛍光灯は消えてしまったけれど、外への連絡用のボタンには目印の赤い光が灯っていて、エレベーター自体が止まってしまったわけではない事がわかる。故障ではなく、節電のために灯りが落とされただけだ。
 普段エレベーターを使用しない彼は、一定時間の利用がないとそうして電灯が落とされるという事を知らないのだろう。てっきり閉じ込められたと思い込んだらしい御剣は、先程までの抵抗が嘘のように成歩堂に縋りついていた。
 がちがちと歯を鳴らして怯える御剣に、成歩堂は耳朶に舌を這わせながら囁いた。
「どうしたの? ・・・僕から逃げたいんじゃなかったの?」
「・・・や、嫌だ・・・っ、なるほ、ど・・・」
 助けて、と。震える唇が声もなく訴える。嫌だと告げる声は成歩堂が与える行為によるものではなく、密室に閉じ込められた事によるものだ。心底から恐怖に怯える無防備な姿を見れば、僅かばかり罪の意識を感じないでもなかったけれど、今はそれ以上に欲望の方が大きかった。宥めるように背を撫でてやりながら、重苦しいコートと上着を手早く脱がせていく。御剣はまるで抵抗を思いつかないようで、成歩堂に促されるままコートから袖を抜き、続けて上着とベストとを床に落とした。
 肌蹴られた白いシャツから覗く肌は、恐怖に血色を失って透き通るように白く、先程吸い付いた跡が鮮やかに浮かび上がっている。赤い斑は所有の証のようで、成歩堂は開いた胸元に再び唇を触れさせた。首筋から鎖骨、胸板まで唇を滑らせても、御剣は逃げようともせず、きつく皺を刻むほど成歩堂の上着にしがみ付いている。
 これからなにをされるのかは、この手の事に慣れていない様子の彼にでも理解できるだろう。しかしそれよりなお、密室に閉じ込められる事の方が御剣にとっては恐ろしいようで、そうして愛撫を施されても、もはや逃げもせず、くすぐったげに身を捩るだけだった。それどころか、閉ざされた空間と暗闇とに怯え、逆に身を摺り寄せてくるほどだ。触れ合う肌が熱く、成歩堂は切なげな溜め息を吐いた。
 彼がこうして自分に縋りつくのは、過去に父親を失った場所にいるという恐怖のためだ。ただそれだけの事で、ここから出てしまえば、きっとこんな風に抱き付いたりはしてくれない。そうとわかってはいても、御剣と体温を共有しているというそれだけの事に、脳髄が痺れるほどの悦びを覚えた。
 痛いほどに首に回される腕を巧みにいなしながら、成歩堂は鬱陶しげにシャツを開いて大きく肌を露にし、愛撫に緩く反応を示している胸の飾りにそっと舌を這わせた。
「あ、あ・・・」
 狭い室内、追い詰められた壁に頭を擦りつけて、御剣はあえかな声を漏らす。尖りたった胸の頂きに吸い付き、固さを増したそれを舌先で転がしながら上目遣いに見上げれば、御剣は眉間に皺を寄せながらも、焦点の合わない視線を彷徨わせ、どこか陶然とした表情をしていた。
 頬が赤い。薄く開いた唇から漏れる呼吸もあがっていて、艶を含んだ響きに成歩堂は軽く息を呑んだ。
 ここは、彼が父親を失い、絶望を知った場所だ。こうして閉じ込められて、おそらくは殆どの理性も働いてはいないのだろう。自分が今何をされているのか、それすらもわかっていないに違いない。零れた声は無意識にあげたもので、決して快楽を自覚しての声ではないはずだ。快楽を与えられている事さえ、わかっていないかもしれないのに。
 それでも、艶かしい痴態にどうしようもなく煽られる。
 胸に悪戯を施したまま、成歩堂は性急に御剣の下肢へと手を伸ばした。かちゃり、と無機質な音を立ててベルトを外し、前を寛げる。御剣からは全く抵抗もなく、荒い呼気が零れるだけだ。
 ジッパーを降ろし、下着ごとズボンを脱がせて足を開かせ、その中心へと触れた。快楽より恐怖が勝っていたのか、愛撫に甘い声を上げてはいても御剣自身はさして反応はしていなかった。まだ殆ど硬さのないそれを、成歩堂は焦れたように乱暴に扱きあげた。指を絡ませ、上下にそれを動かして悦楽を煽る。無理矢理に高められた快楽に、御剣はびくんと喉を仰け反らせた。掠れた高い声が密室に響き渡る。
「ひぁ、うっ、あ・・・」
「・・・悪くはないみたいだね」
 不明瞭な喘ぎ声を受けて、軽く自身を握り込むようにしながら、成歩堂は笑いを含んだ声でそう告げた。
 包み込んだものは、成歩堂の手の内で次第に力を持って勃ち上がり始めている。先端に滲んだ透明なものを自身に擦りつけるように愛撫すれば、抱き締めた体はまた大きく震え、快感の在処を成歩堂に教えた。びくびくと震えるものを成歩堂は更に強く指を動かして追い上げ、体を寄せ耳に噛み付くようにして囁いた。
「無理矢理されてるのに、感じるの・・・?」
「ふ、うぁ」
 嬲る響きにも、御剣は言葉にならない快楽の声を落とすだけだ。与えられるものに素直に反応する彼の艶姿に、欲情を煽られながらも、その反面では虚しさも覚えた。御剣の瞳は相変わらず焦点もあわず宙空を彷徨うばかりで、自分を見てはいなかった。見えていないのか見ようとしないのか、どちらにせよ彼が自分を自分だと認識していなければ、こんな行為には意味もない。
 そうだとは思っても、やめてやるつもりもなかった。
 彼が恐怖から逃げるために快楽を貪っているのでも、行為をなかった事には出来ない。消えない傷を刻み込む事は出来る。
 限界を訴えて張り詰めたものをそのままに、成歩堂は先走りにべとりと濡れた手をもっと奥まった箇所へと滑らせた。絶頂を極める直前で解放されてしまった事に、御剣は恨みがましげな、甘く先を強請るかのような艶めいた溜め息を漏らした。それを無視して固く閉じた蕾へ濡れた指先を触れさせると、弾かれたように体が揺れて、背に添えられていた手がぎり、と爪を立てた。
「つ・・・」
「・・・い、やだ・・・!」
 布地越しにも鋭い痛み。容赦のない力で背を抉られ、成歩堂が詰めた息を漏らすのと同時に、御剣からもはっきりとした抵抗の言葉が落ちた。
 それでも、背に縋りついた手は離れない。成歩堂は入り口に添えていた指先を、ぐ、と内部へ押し込んだ。浅い部分で、狭い媚肉を押し広げるように動かすと、一際大きく御剣の体が跳ねた。
「痛っ・・・あ、う」
「もっと大きな声出してみれば? でもこんな夜中じゃ、誰も気付いてくれないかな」
「嫌だ、や・・・助け・・・っ」
「僕が嫌なら、はねのけなよ。僕は止めるつもりはない」
 冷たく言い放った言葉に、御剣は大きく目を瞠って声を詰まらせた。絶望を滲ませた表情を見ないようにして、成歩堂は目を伏せる。
 指を差し入れた部分はきつく軋んで、成歩堂を拒絶していた。それに逆らうように、強引に深く咥えさせると、僅かばかりの湿りでは痛みを和らげる事も出来ず、御剣はただ苦しげな声を零して首を振った。声は、今度は明確な言葉を紡ぎ出す事はない。引き攣れた痛みに弱々しく身を捩り、悲痛な喘ぎだけをあげ続ける御剣に、成歩堂は焦れたようにもう一本指を差し入れた。出来るだけ内壁を傷つけないよう、注意しながら奥へと指を進めていく。
 ふと顔を覗き込めば、きつく閉じた瞼の端に、うっすらと涙が滲んでいた。痛みのためか、それとも悔しさか怒りか。もう、よくわからなかったし、どうでもよかった。どんな感情であれ、それは自分に向けられたものだ。そうと思うだけで、身体は幸福に打ち震えるようだった。
 御剣の瞳に自分が映っているのなら、それだけで。
 成歩堂は足を開かせていた手を離して、目にかかる長い前髪をかきあげてやった。額にはじっとりと汗が滲んでいる。それを拭うように手を滑らせ、最後に瞼に触れた。
「目、開けて」
 小さく囁く。軽く指先で瞼をなぞってやると、それに誘われるようにして御剣はゆっくりと目を開けた。涙に潤んだ瞳にはいつものような理性の光は微塵もなく、それでも促されるままに成歩堂を見つめる眼差しは、欲望とはまるで無縁で、無垢で綺麗だった。
 荒く息を吐く唇に、そっと自らのそれを触れさせた。目を閉じもせず唇だけを合わせて、成歩堂は低く、独り言のように呟いた。
「僕を見ていて。・・・今だけでも、いいから」
 触れるだけのキスを施しながら、脱がせ散らかした服の上にそっと御剣を横たえた。開かせた足の間に体を滑り込ませ、細かく震える足を抱えあげる。
「あ・・・っ、ぐ・・・!」
 差し入れた指を入り口まで引き抜き、狭い入り口を広げて、既に力を持ち昂ぶっている自身を押し当てた。充分慣らしたわけでもないそこへ、媚肉を軋ませながら力ずくで押し入ると、御剣は悲鳴すらあげられずに、切れ切れに乱れた呼気を零した。激しい痛みに全身が竦んでいるようで、呼吸すら上手く継げておらず、強張った体は、どうにか押し込んだ先端を痛いほど締め付けてくる。大きく目を見開いて不規則な吐息を漏らす御剣に、成歩堂もまた眉を顰めながら、それでも容赦なく腰を進めた。
 途中、皮膚が軋むような感覚があって、内部にぬめりが零れたのがわかった。強引な行為に粘膜が切れてしまったのだろう。しかし引き抜きはせず、血の滑りを頼りに最奥まで収めて、成歩堂は深く息を吐いて御剣を見下ろした。
 身を裂かれる痛みに、先程まではうっすらと上気していた頬も、すっかり青褪めていた。額に汗を滲ませ、呼吸を整える事すら出来ずに懸命に痛みに耐えている姿は、肌を合わせるという行為の甘さなど微塵も感じさせず、ただ痛々しく哀れだった。
 しかし御剣は、瞳を閉じてはいなかった。
 苦痛に顔を歪ませてはいても、目は逸らされる事なく成歩堂を見つめ返している。生理的な涙を滲ませて潤んだ瞳はやはり痛々しく、けれど逃げる事はない。怒りも憎しみも、そして恐怖も感じさせない眼差しだった。かといって意識を遠くに飛ばしてしまっいるような、無機質さも感じなかった。彼の瞳は、確かに自分を映している。
 静かな、視線だった。成歩堂は僅かに目を瞠ったが、御剣にそれを問う事はしなかった。彼は答えないであろうし、答えを欲しいとも思わなかった。彼が、都合よく自分の望む答えをくれるだなどとは、思わない。問い掛ける代わりに、腰に手を添えてゆっくりと体を動かす。
「い・・・っ」
 殺しきれない上擦った声。身を引くと、ぬるついたものが伝う感触があった。彼の流した血の匂いが、甘く部屋に散る。それに構わず成歩堂は再び深く自身を差し入れ、横たえた体を揺さぶった。身動きのたびに淫猥に濡れた音が響き、御剣は肩を掴む手で成歩堂に爪を立て、頭を打ち振るって掠れた悲鳴をあげた。
 それでも何度か抜き差しすれば、狭い部分もいくらかは馴染んで、強く弱く、御剣の呼吸に合わせて成歩堂を包み込んだ。繋がった部分が爛れてしまいそうなほどの熱さ。一つに繋がっているという事に確かな快楽を覚えながら、成歩堂は激しく律動を繰り返す。腰を叩きつけるたび熱い内部は新たな血に濡れて、皮肉な事にそれがより深くへと成歩堂を誘った。
 奥深くを抉られてあがる悲鳴はやはり苦痛の響きが強く、御剣にとっては痛みだけをもたらすだけの行為であるのに、しかし御剣は成歩堂にしがみ付いたまま離れる事はない。眉根を寄せて痛みに耐えながら、御剣は真っ直ぐに成歩堂の瞳を覗き込む。
 その視線に、成歩堂は曖昧に笑っただけだった。
 彼を愛したいのか、傷付けたいのか。自身でも、もうわからなかった。
「う、くっ・・・! な・・・るほ、ど・・・」
「御剣・・・っ」
 切れ切れの呼びかけに煽られて、成歩堂もまた切羽詰った声で御剣を呼ばわりながら、最奥に欲望を放った。体の深くに叩きつけられた熱い迸りの感触に、御剣は背を仰け反らせはしたものの、やはり痛みの方が大きく、達する事はなかった。だが身を苛んでいたものの質量が減った事に安堵したのか、強張っていた全身から徐々に力が抜けていくのがわかった。
 解放の余韻に息を乱しながら、成歩堂は御剣をきつく抱き締めて、耳元に顔を寄せた。
 ―――好きだ、と。
 最後に呟いた言葉も届く事無く、抱き締めた体は意識を失って、ぐったりと成歩堂の腕に落ちた。



 昇り始めた朝の太陽の柔らかな光に、憔悴した表情がぼんやりと照らされる。
 元々あまり日に焼けていなかった白い肌は、長い時間無体を強いたためにすっかり血色を失って、今は病的なほど青白い。穏やかな表情はまるで死人のようにも見えてぞっとしなかった。
 今更のように湧き起こる心配の念に、しかし成歩堂は自嘲気味に笑った。一度気を失った御剣を部屋に運んでやりはしたものの、それだけで許すつもりはなかった。深い眠りにさらわれていた意識を半ば無理矢理に覚醒させ、殆ど抵抗もしない体を組み敷いて蹂躙した。何度も何度も、再び意識を失うまで手酷く彼を犯したのは、他でもない自分だというのに。
 それでも、後悔は微塵もなかった。
 行為の最中、御剣は自分に対して憎しみを感じさせるような言動は一言も零さなかったが、それは意識が朦朧としていたせいであろう。目を覚ませば、自分を罵り軽蔑するに違いない。けれど自分を偽って友人と演じ続けるよりは、その方が余程ましだった。彼に対して感じる友情に、偽りは欠片もない。今も彼は、かけがえのない友人だ。だが彼を、純粋な友人として見れなくなっているのも事実だった。彼にとっての自分が、ただの友人でしかなくとも、自分にとってはそうではない。友人として好きだと思う気持ち以上に、彼を欲しいと思ってしまっている。
 この行為によって、彼が自分を意識してくれるのなら、それが憎しみでも構わないと思った。他の誰より、自分が一番でありさえすれば。蔑まれようとも、自分という存在を彼に刻む事が出来るなら。
 それは、エゴでしかなく、自分勝手な欲望でしかないけれど。
 成歩堂はすいと手を伸ばして長い前髪に指を差し入れた。汗に汚れたそれを綺麗に梳いて、露になった額に手を置く。意識を失った時には発熱していたようだが、今は大分落ち着いているようだった。触れる体温は自分の手とそう変わらず、むしろ自分の手の方が熱いほどだ。薄く微笑みながら、成歩堂はそっと手を滑らせて頬を撫でた。
 愛しいと、思う。大切にしたいと、そう思う。
 けれどそれと同時に、怖いとも思うのだ。
 彼はいつか、また一年前と同じようにいなくなってしまうかもしれない。自分の事など忘れて、どこかへ消えてしまうのかもしれない。そう思うだけで、胸が締め付けられるようだった。
 それならば、傷付けてでも傍に繋いでおきたい。憎まれても傍にいたい。そう思うのは、罪悪だろうか。
 成歩堂は掛布からはみ出た御剣の手をそっと取り上げ、両手で包み込んで呼びかけた。
「御剣・・・」
 零れる声は切なげで弱々しく、必死の響きがある。早く目を覚まして欲しいと思うのに、それが怖い。目覚めた彼が自分を突き放す言葉を吐くのではないかと思うと、今すぐ逃げ出してしまいたい気持ちに駆られる。しかし逃げてしまえば、そこで本当に終わりになってしまうのだ。彼を永遠に失う。それだけは、どうしても嫌だった。ただ御剣を失いたくない一心で、成歩堂は逃げ出したくなる衝動を抑え込んでいた。
「・・・御剣・・・」
 再び呼びかけて、握り締めた手に僅かだけ力を込めた。
 するとその手が、びくり、と震えた。指先が震え、ゆっくりと力を取り戻していく。逆に手を握り返されて、成歩堂は御剣の顔を覗き込んだ。
 閉じていた瞳が、長い時間をかけて開かれた。しばらく焦点があわず天井を彷徨っていた視線が、状況を確かめるようにぐるりと室内を眺め、そして最後に成歩堂で止まった。視線が交わって、成歩堂は思わず身を引いてしまったが、御剣は繋いだ手に力を込めて、逆に成歩堂を引き寄せた。覚醒したばかりの虚ろな瞳を成歩堂へと向けて、乾いた唇をぎこちなく開く。
「・・・成歩堂」
 小さな声での呼びかけと共に、瞳に知性の光が灯る。薄く微笑んでいるようにさえ見える表情は、けれど疲労の色が濃く滲んでいて、やはり痛々しい。成歩堂がぐ、と声を詰まらせると、御剣は小さく首を傾けて成歩堂を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「満足、したのか?」
「・・・え?」
「私を傷付けたかったのだろう? これで満足か」
 問い掛けるというよりは独白に近い声。しかし責める響きは欠片もなかった。穏やかにそう語る御剣に、成歩堂は愕然と目を瞠った。
 自分を咎めるでも、詰るでもない声だった。彼は怒ってもいなければ、悲しんでもいない。かといって、犯されたという事をわかっていないわけでもない。自分のした事は、彼の意志の伴わない、彼の弱みにつけこんでの卑怯な行為だった。恐怖を盾に快楽に意識を追いやって、好き勝手に蹂躙した。彼が傷付かないわけがないのだ。
 なのに、御剣は自分を責めず、撥ね退けるでもなく、満足か、と問い掛けてくる。握り締めた手はそのままで、繋がった体温はひどく心地がよく、成歩堂は泣き出しそうな気持ちになって激しく首を振った。
「違う・・・違う、僕は・・・!」
「まだ足りないなら、好きにするといい」
 言い訳を並べ立てようとするのを、御剣は静かな声で遮った。特に投げ遣りになっている様子もなく、あまりに穏やかなその様子に、成歩堂は数度目を瞬いて御剣を見つめた。視線を返してくる御剣はやはり不思議と落ち着いた、負の感情の読み取れない表情をしていて、成歩堂はますます混乱した。
「・・・どうして」
 絞り出した声は震えていた。一度言葉を切って、大きく息を吸って続ける。
「君は、それで平気なの? 僕にいいように犯されて、汚されて・・・それでいいの?」
「構わない」
 御剣の返答は淀みなくはっきりとしたものだった。それは決して何かを諦めている風ではなく、凛と強い調子で、彼自身の意志から出た言葉だと知れた。自分を見つめる眼差しも静かに応じる声も、普段の彼のそれに近い。揺ぎ無い強さが見て取れた。
 しかし彼が強く在れる理由は全くわからず、成歩堂は泣きそうに顔を歪めて俯いた。
 自分は、彼の意志を聞かず、自分勝手な理由で無理矢理に彼を追い詰めて、力ずくで組み敷いて犯したのだ。御剣には怒る理由がある。それが何故怒らず、自分を憎みも嘲りもせず、犯されても構わない、と何もなかったかのような平然とした顔で許してしまえるのか。成歩堂には理解できなかった。きつく拳を握り締めて、御剣の顔は見れぬままにもう一度呟く。
「どうして・・・」
「私を生かしているのが、君だからだ」
 答える声はやはり凛としたそれで、俯いていた成歩堂ははっとなって顔をあげた。見上げた御剣の表情は、寂しげではあったがそれでも柔らかく綺麗に微笑んでいて、思わず声を飲み込んで見惚れた。
 御剣は緩く握り締めた手にもう片方のそれを重ねた。
「全てを失って、闇の中にいた私にとって・・・君は、ただ一つの光だった」
 未だ夢の中にでもいるような口調で、御剣は囁く。掠れてはいたが、穏やかな声だった。
 成歩堂を見つめる視線も、静かで一点の濁りもなかった。あれだけの陵辱を受けた今も、彼は変わらずに綺麗なままで、成歩堂は大きく目を瞬いて御剣を見つめた。都合のいい夢でも見ているのかと現実を疑うけれど、繋いだ手の温もりは本物だ。夢でも幻でもない。成歩堂は呆然と青年の名を呟いた。
「・・・みつ、るぎ」
「私がこうして生きているのは、君がいるからだ。・・・君になら、何をされても、構わない」
「・・・・・・」
 握り締めた手に、力が篭る。成歩堂を見つめる御剣の双眸にも、強い力が戻っていた。胸を射抜かれるかのような視線を受けて、ごくりと息を呑む。御剣は逆に大きく息を吐き、そうしてまたゆっくりと吸い込んで、口を開いた。
「私は、もう、逃げないから」
 生かすなり殺すなり、好きにするといい。
 自らの意志でそう告げる御剣の声は、それこそ光を紡いだかのようで、成歩堂は涙を堪えるように顔を歪めた。
 手をきつく握り締めたまま、成歩堂は無言で御剣の胸元に顔を伏せて表情を隠す。圧し掛かってきた重みを、御剣は厭う事もなく受け入れた。緩慢な動きでもう片腕を上げて、伏せた成歩堂の頭をそっと撫でた。ぎこちなくはあったが優しい指先に、成歩堂は絞り出すような声を漏らした。
「君が、好きなんだ・・・愛してるんだ」
「・・・・・・私、も」
 好きだ、と。
 恥じらいにうっすらと顔を赤らめ、躊躇いながらもはっきりとそう応える御剣の言葉に、きっと嘘はないのだろうと思う。
 人一倍高い矜持を持つ彼のこと、望まない相手に身勝手な陵辱を許す事など、決してありえない。そんな事になれば、それこそ迷わず死を選ぶような人間だと、自分はよく知っている。こうして触れる事を許してくれているのは、彼が自分に少なからず思慕を抱いてくれているからだ。それは、素直に嬉しく思う。
 逃げないと言う言葉は、きっと、嘘ではない。
 けれど、真実にもならないだろう事も、わかっていた。
『でも君は、きっと、また僕を置いていってしまうんだ』
 どれだけ愛していると囁いても。決して消えない傷を心と体とに刻んでも。彼はそんなものには縛られもせず、汚されもせず、揺ぎ無く美しいままで。前だけを向いて、自分に背を向けるのだ。
『僕を好きだと言いながら・・・消えてしまうんだ』
 光を、手にとどめておく事など、到底出来はしないのだから。
 何度も優しく頭を撫でる手の感触を嬉しく思いながらも、ただそれを受け入れる事も出来ない葛藤の中で、成歩堂は、せめて、と強く祈る。
 ―――せめて今だけは。この温もりが、自分だけのものであるように、と。



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