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  as if in a dream
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 室内に絶え間なく響き渡る、甲高い少女の声。
 赤い液体の注がれたグラスを手に持て余しながら、カイはひっそりと、目の前に座る少女に気付かれないよう、溜め息を吐いた。
 疲れと戸惑いとが色濃く現れた吐息であったが、熱弁を揮うのに忙しい少女は、それに気付いた風もない。頬を膨らませ、唇を尖らせて、彼女はまだ成長途中の小柄な体全体で目一杯の怒りを表していた。
 メイは琥珀色の双眸を興奮に輝かせながら、また大きな声を張り上げてテーブルから身を乗り出し、カイに詰め寄った。
「ね、カイさんもひどいと思うでしょ?」
「・・・はあ」
「はあ、じゃないよ! ちゃんと話聞いてた?!」
「は、はい、聞いてました」
 怒りに悔しさにと強い感情の篭められた声に、カイはただ圧倒されるばかりだった。
 けれど文句一つを口にする事もなく、カイは身振り手振りをつけて語り続けるメイに、努めて柔和な笑顔を作り、時折頷き相槌を打って、話を聞いてやっていた。
 両手一杯にワインやらブランデーやらたくさんの酒瓶を抱えたメイが、珍しく自分からカイの自宅を訪ねてきたのは、既に陽も暮れた時間、ちょうど食事を終えて、片付けもそこそこに一息ついていた所だった。
 彼女とは前大会以来の顔見知り同士ではあるが、とはいえ快賊と警察の関係である。クルーの人間を伴わずに一人で訪ねてきたのも初めての事で、カイは少なからず驚いたが、尋ねるまでもなく彼女自身が語ってくれた事の顛末は、いたって簡単なものだった。彼女の保護者であり思い人である快賊の頭領が、どうやら女性と姿を消してしまったらしい。
 メイはそれに腹を立てて家出してきた、という事のようであり、大量の酒を抱えてきた理由も単純明快で、『グレてやる』であった。グレようとしている少女の家出先が警察機構の人間の自宅、というのも、考えれば少しおかしなものではあるけれど。
 だがカイにしてみれば、ジョニーが女性と消えてしまうというのは珍しい事とも思えなかった。警察に捕まっている時でさえ、看守の女性を口説きまわっていたような男だ。日常がどうであるかは、想像するのも容易い事だった。それは自分などよりも、付き合いの長い彼女の方が、ずっとよくわかっているはずである。
 しかしそれを口にすればどうなるかも想像に難くないので、カイは沈黙を守る事にした。メイはまだ足りないとばかりにぶつぶつと呟き続けている。
「ボクだって、お酒飲めるのにぃ・・・」
 恨めしそうにそう言うメイのグラスに注がれている飲み物は、コーラに香り付け程度にブランデーを数滴だけ落としたもので、アルコールと呼べるほどのものではない。要は『グレた』という気分が味わえればいいだけなのだろう、メイはジュースと変わりない飲み物を、それでも満足げに飲み干した。
 大きく息を吐いてたメイは、しかしやはりまだ拗ねた表情で、じとりとカイを睨み付けた。酔っているように見えなくもない、とろんとした瞳。けれどそこに宿る光は真剣だった。
「カイさんも、ボクはまだ子供だから何もわかってない、って思ってるんでしょ」
「・・・・・・」
「わかってるもん」
 反論しなかったカイに、メイは怒らず、小さくぼやいた。
「ジョニーがボクを大事にしてくれてるのは、ちゃんと、わかってるんだよ」
 それが保護者という意味でも、とメイは大きな瞳に涙を溜めて俯いた。意外な言葉にカイは少し驚いたけれど、納得もした。年若いとはいえやはり少女だ。こういった感情の機微には、自分より余程聡い部分がある。
 メイは膝の上に置いた手を握り締めた。
「でも、やっぱり、言葉で聞きたいよ・・・」
 泣き出す寸前の声での呟きと、チャイムの音が重なった。
 この時間に訪問してくる人間など、心当たりは今のところ一人しかいない。カイがメイを見やると、メイもまた訪問者の気配を敏く感じ取って、一旦顔を上げはしたものの、また無言のまま、脇にあったクッションを抱き締めて俯いてしまった。
 カイは仕方なしに自分で立ち上がり、インターフォン越しに一言二言を交わして、予想通りの訪問者を邸内へと招き入れた。
 いつもと同じ黒い帽子にコートにサングラスといった出で立ちの男は、部屋にメイの姿を認めると、大仰に肩を竦めながら大きな溜め息を吐いた。
「探したぞ、メイ」
 ジョニーが部屋に入ってきても、メイは返事どころか、ドアの方を見もしなかった。クッションに縋るようにして、拗ねた背中だけをジョニーに向ける。すっかり機嫌を損ねてしまっているメイに、ジョニーは苦笑しながら懐から紙片を取り出し、それを広げてみせた。
 綺麗に折りたたまれていた紙には、丸みのある大きな字で、家出する、といった主旨の事が乱雑に書き殴られていた。
「全く、警察に家出してどうするんだ」
 男の声は普段と同じに軽妙で、呆れるというよりは少女のある意味矛盾した行動を面白がっている節があった。広げた紙片を再び元通りに綺麗にたたんで懐に戻し、腰に手を当ててメイを見下ろす。
「帰るぞ。長居すると、本当に逮捕されかねないからな」
 冗談めかしてジョニーは言うが、メイはそれでも振り返らなかった。クッションを更に強く抱き締めて、大きく首を振る事だけで応じる。ジョニーはやはり困った顔もせず、メイの様子を窺うように軽く上体を折った。
「どうした、メイ? 帰らないのか?」
「ボクなんか、帰らなくてもいいくせに」
「は?」
「ジョニーは、ボクより大人の女の人の方がいいんでしょっ」
 吐き捨てるように言ったきり、頬を膨らませてそっぽを向いてしまった少女に、ジョニーは小さく苦笑した。だが心底困っているという様子はなく、メイの背中を見やる眼差しは、暖かささえ感じられる。
 ジョニーはサングラスの奥の目を細め、少し思案して、軽い溜め息を漏らした。メイの隣に静かに腰を下ろす。二人分の重みに、ソファが軋んだ。
「メイ」
 低い声が、優しく、甘い響きをもって少女を呼んだ。
 普段とはまるで違った、それは例えば女性に呼びかけるような、誰もを振り向かせる魅惑的な声だった。誘惑に、メイは音がするほど勢いよく振り返った。癖のない髪が柔らかに揺れる。メイの視線に合わせて腰を曲げたジョニーは、振り向いた少女を、そっと抱き寄せた。
 唇がメイの頬を掠めた。栗色の瞳が大きく瞠られる。そして頬に押し当てられた唇が、何事かを呟いたようだった。呟きはメイの耳だけに届き、それにメイはかあっと頬を染めた。年頃の少女らしい、初々しい反応だった。傍で見ているカイまで、思わず顔を赤らめてしまう。
 体を離したジョニーは、少女の髪を指先で梳いてやりながら、薄く笑った。



「ジョニー・・・」
「こういうのはな、年がら年中口にすればいいってもんじゃないんだぞ、メイ」
 大きな瞳に、先程までとは違った意味の涙を溜めたメイに、ジョニーは指先を唇に当てながら囁く。口調はやはりどこかおどけたようなものだったけれど、その言葉が冗談などでない事は、メイ自身がよくわかっている事だろう。
 ジョニーが確認するように顔を近付けて首を傾けると、メイは大きく頷いて、元気よくジョニーに飛びついた。胸に顔を埋め、再び顔をあげたメイは、先程までの曇った表情がまるで嘘のように明るく微笑んでみせた。
 大輪の花が咲いたような笑顔だった。満面に笑みを浮かべて、メイは普段と同じの、元気の良い声でもって高らかに告げる。
「ジョニー、大好きっ!」
 何のてらいもなく正直に気持ちを明かし、少女は男を押し倒すばかりの勢いで体を摺り寄せた。まるで小動物のような懐き方だ。カイが口を挟めずにいると、ジョニーはさすがに今度は困った顔をして、メイの背中を叩いて促した。
「話は帰ってからだ。ほら、行くぞ」
 軽く腕を引いて立ち上がらせるが、メイはジョニーに抱きついたまま離れようともしない。幸せ一杯といった顔で微笑むメイにつられるようにして笑いながら、カイはジョニーを見た。
 サングラスを指で押し上げながら、ジョニーはおどけたように片手を額に当て、敬礼してみせた。
「世話になったな」
「いいえ。お土産も貰いましたしね」
 カイはグラスを傾けて笑った。メイが持ち込んできた酒は、さほど詳しくないカイでも、高価なものだとわかるようなものだった。おそらくはジョニーの、それも秘蔵のものを勝手に持ち出してきたのだろう。
 テーブルに並べられ、無造作に栓を開けられたそれらを見やったジョニーは、少しだけ眉をしかめたが、肩を竦めるに留まった。
「いいさ。安いもんだ」
 腰に腕を巻き付けて、ぴったりと体を寄り添わせて離さないメイの頭を優しく叩いてやりながら笑うジョニーに、カイは大きく息を吐いた。顔見知りとはいえ男は空賊なのである。本来であれば身柄を拘束する所であるのだが、それは無粋というものだろう。心底幸せそうなメイの笑顔を見れば、そんな事は瑣末な事に思えた。
「未成年に飲酒させるような事をしたら、今度は逮捕しますから」
「肝に銘じておくよ。・・・そっちも仲良くな」
 メイの肩を抱き、くるりと背を向けたジョニーは、去り際に軽く手を上げてさらりとそんな事を言う。意趣返しとばかりに投げられた一言に、カイは正直に顔を赤くしてしまった。幸い、背を向けていた二人には見られずに済んだけれど。
 最後に玄関の閉まる音がして、ようやくの事で静けさが戻り、それにカイが軽く息を吐くと、今度は寝室に続くドアが開いた。
 暗がりから無言のまま現れた男は、手に半分中身の空いた酒瓶を持ち、もう片手で不機嫌そうに頭を掻き毟りながら、いかにも虫の居所が悪いとばかりに、足音を立ててソファに歩み寄った。
「ったく、やっとうるせぇのがいなくなったか」
 大きな溜め息に混ぜて呟いたソルに、カイは苦笑した。少女の明るさは気持ちのよいものではあるが、さすがに夜、酒を飲むには少々騒がしい。喧騒より静寂を好むこの男には、うるさくも感じられるだろう。
 自分を差し置いて隣室に逃げていた事を咎めはせず、カイは自らもワインの入ったグラスを傾けた。隣にどっかりと座り込んだソルに、確信を含めて尋ねる。
「あなたがジョニーさんに報せてくれたんですね」
「煩かったからな」
「助かりました。飲みなおしましょうか」
 テーブルに並ぶ一本を手に取って差し出し、カイは自らのグラスにもワインを注いだ。手もちの瓶を一気に空にしたソルは、改めてグラスを持つこともなく、また瓶に直接唇をつけた。余程鬱憤が溜まっていたのか、飲み方もいつにも増して豪快だ。
 腹いせとばかりにジョニーの置いていった酒を空けていくソルを眺めながら、カイは小さく呟いた。
「でも・・・少し、羨ましい気がします」
 呟きは、夢見るような響きだった。ソルは一度動きを止め、横目でカイを見やった。
「ああやって素直に気持ちを伝えられて・・・」
 ―――応えて、もらえて。
 続く言葉を、カイはグラスを煽ることで封じた。勢いに任せて零した言葉は、あてつけに近い。それ以上は自分の我侭であって、ソルに言うべき言葉ではなく、無理に望む事でもないだろう。
 卑怯だ、とカイは自らを恥じた。自分だって、この気持ちをあらわす言葉を、未だに口に出来ないでいるくせに。
 カイは失態を誤魔化すように、殊更柔らかく微笑んでみせた。
「すみません、少し、酔ったみたいですね」
 呟きながらふと瓶を見てみれば、既に空になりかけていた。メイの勢いにつられていたという事もあるが、普段殆ど口にしないだけに、これだけ飲むとさすがに酔いが回ったようだった。体が、吐く息が熱く、酒気に蕩けているのが自分でもわかる。
 カイは深く息を吐いた。吸い込んだ空気の冷たさも、しかし霞みのかかったような意識をはっきりとはさせてくれない。妙な浮遊感が体を支配していた。
 沈黙を誤魔化すように、カイは瓶に残ったワインをなみなみとグラスに注ぎ、それをそのまま口に運んで飲み干した。喉を降りていく冷たさと胃を満たすアルコールの熱さが、思考を侵食していく。
 熱に浮かされ艶めいた瞳で、カイは、ソルを見た。
 自分の倍は飲んでいるであろうソルは、なおも平然とした顔で瓶をそのまま煽っている。ギアであるせいなのか元々の体質なのか、カイはソルが酔っている姿というのを見た事が無い。酔い潰れているソル、というのも想像に難いけれども。
 何とはなしにソルを見つめながら、照れもせずに気持ちを口にし、思い切りジョニーに抱き付くメイの姿を思い出す。
 ―――あんな風に、抱き付いたりしたら、困るだろうか。
 カイは少し考え、グラスをテーブルに戻して、身を乗り出した。
「・・・ソル」
 グラスを置いた手を、そのままソルヘと伸ばす。男の肌は熱かった。剥き出しの肩に恐る恐る触れた指先を、カイはするりと滑らせて、ソルを引き寄せるようにして体を添わせた。ソファの上に膝をついて頭を抱き、ヘッドギアの奥に光る紅蓮の瞳を間近から深くまで覗き込む。
 自分を見上げる瞳は、その色に反してひどく静かだ。酒による興奮も全く感じられない。
 何だかそれも悔しくて、カイは子供のように唇を尖らせたあと、ゆっくりとソルに顔を近付けた。やはり平然としたまま、目を閉じもしない男に、自らは目を伏せて唇を押し付けるようにして口接ける。
 抱き寄せた肌は熱かったが触れた唇は冷たかった。煙草の匂いはしたけれど、酒の匂いを感じないのは、自分も飲んでいるからだろうか。
 そんな事を考えながら、カイはソルから施される口接けをなぞるように、深く唇を合わせた。舌先で唇を割り、そのまま口内へ差し入れる。独特の温度の口腔は暖かではあるが、自分よりはやはり冷たい。カイは自分の温度を分けるように、ソルの舌に自らのそれを絡め、吸い上げた。
 情欲を煽るにはぎこちなく、幼い行為だった。時折漏れる濡れた音に、カイはそれにさえ恥じ入って、体を強張らせたが、けれど離れる事はしなかった。吐息を、温度を分け合い、何度も繰り返し唇を寄せる。
 やがて名残惜しげに離れると、ソルは一度ゆっくりと瞬きをしてカイを見上げた。些かの興奮も感じさせない静かな声で呟く。
「酔ってるのか」
「・・・そう、だと思います」
 カイは曖昧に肯定した。酔ってでもいなければ、自分から誘うような行為など、絶対に出来はしない。だが、酒の勢いを借りてはいても、これは確かに、自分の望みだ。酒のせいにだけはしたくはない気がする。
 一度くらいは、とカイははにかんだように笑いながら呟いた。
「一度くらいは、私の、好きにさせてください」
 ソルに圧し掛かる形で、カイは男の頭を抱き寄せ、額当ての留め具に手をかけた。
 きつい戒めを丁寧に一つずつ解いていく。カイを支えるように腰に腕を添えたソルは、特にそれを遮るでもなく、目の前にある白い襟元にそっと唇を当てた。吐息を触れさせるだけの愛撫だが、熱い呼気にカイは緩く身動ぎする。
 間も無く、留め具の外れた鉢金が、硬質な音を立てて床に落とされた。
 露になった額に、その中央に浮かぶ赤い刻印に、カイは躊躇わず愛おしむように口接けた。唇で、忌むべき徴を辿りながら、首に絡ませた腕を動かしてジャケットを脱がしていく。
 ふと、メイの眩しい笑顔が脳裏を掠めた。
 綺麗な笑顔だった。恋をしている少女の表情だ。思い人をただ真っ直ぐに見つめるその愛らしい大きな瞳を、カイは、素直に美しいとそう思った。彼女の思いを受け止めているジョニーには、もっと美しく見えているのだろうと思う。
 だが自分は、きっと、彼女のようにあけすけな気持ちを伝える事は、出来ないだろう。
 ソルも、例えば自分の事を好意的に思ってくれていたとしても、決して心を口にする事はすまい。それが、甘やかであっても互いを縛る鎖になるであろう事を、自分も、ソルも、知っている。
 それでもどこかで、体だけでも繋がっていたいと、体の繋がりででも安心が欲しい、約束が欲しい、とそう思うのは―――何と短絡的で、愚かしい事だろうか。
 カイはふと口の端に自嘲的な笑みを浮かばせた。
『だから、名前、呼んでくれないのかな』
 情事の時に気紛れに呟く他には、カイはソルから名前で呼ばれた記憶もない。
 それは互いの近付かない距離をあらわしているようで少し悲しかったけれども、それを言うのなら踏み出せずにいる自分もまた、本当の意味で彼の名前を呼べてはいないのかもしれないとも思った。
 ジャケットが肩からするりと脱げ、ヘッドギアを隠すように床に落ちた。逞しく盛り上がった筋肉にゆっくりと手を這わせながら、カイはソルの耳朶に顔を寄せ、甘く噛み付いてそのまま首筋へと唇を滑らせる。
 そうしてぎこちなくも愛撫を施していると、不意に肌に滑らせた手を取りあげられた。何か気に障ったかとカイが間近から顔を覗き込めば、ソルは相変わらずのむっつりとした表情で、ほんの数瞬躊躇った後、長い前髪の奥に隠れた双眸をぎらつかせ、カイを見た。
「一度でいいのか」
「え?」
 低い声に目を瞬かせる間もなく、いきなり襟を掴まれて引き寄せられた。
 視界が揺れる。細い体は容易くソルの腕の中に収まった。見上げていた顔に今度は見下ろされて、カイは困惑した。唐突のソルの行動の意図が掴めない。
 何度か瞬きをして、カイはじっとソルを見つめた。ソルはやはり平然とした顔のまま、瞳にだけ強い、鮮やかな輝きを宿らせて、カイの視線を受け止める。炎よりなお激しく燃え盛る双眸に、カイは飲み込まれそうになりながらも、強く魅入られた。
 しかしその感情の色は読み取れず、カイは口を開こうとしたが、それは出来なかった。腕の力を強めたソルに、さらにきつく、戒めるような抱擁を受けて、絡んだ視線は容易く外されてしまった。
 ソルの肩越しに自分の部屋の景色をぼんやりと見やっていると、不意に、耳元に吐息を感じた。
「カイ」
 唇が耳朶を掠め、声が染み渡る。
 カイは大きく目を瞠った。一瞬、名前を呼ばわったそれがソルの声であると知覚出来なかった。受け止めた深い呼吸の振動が、直接耳から鼓膜へと伝わって、その熱さにカイは身を竦める。
 体を満たしていくものは、ソルの熱なのか、それとも自分の熱なのかさえ、わからない。
 困惑するカイを他所に、聞き慣れた男の低い声が、炎の熱さと激しさとを孕んで、はっきりと注ぎ込まれた。
「愛してる」
「―――!」
 息が詰まる。限界まで目を見開いたカイは、喉の奥から引き攣れた呼気だけを漏らした。声を紡ごうとするけれどそれは形になどならず、抱擁は声を発することを遮っているかのように強く、激しい。
 熱い腕。熱い声。夢と思う事も出来ない。全てが生々しいほどの現実だった。
 何度も耳の奥に繰り返す男の言葉に、カイは眩暈のような感覚を受ける。酒によってもたらされるものなのか、それすらももう定かではない。現実と夢幻とが交錯する中で、カイは徐々に体の力を抜いていった。
 途端に襲う睡魔の誘惑に負けて、瞼の降りるままカイは目を閉じた。視界が閉ざされるのと同時に、意識もまた、急速に闇に沈んでいく。
 倒れ込む自分を抱きとめた男の、舌打ち混じりの呟きを、カイは、知らない。
「・・・返事もねぇのかよ、クソガキが」







 目を開けると、見慣れた天井があった。
 自分の寝室だ。ぼんやりとそれを知覚しながら、カイは身を起こそうとして、しかし不意に頭を鈍痛に襲われた。起こしかけた上体をまた力なくベッドに沈ませ、カイは眉根を寄せながら額に手を当てた。指先はひやりと冷たく心地好い。ひどく喉が渇いていた。
 頭痛の原因も、いつの間に寝台に潜り込んだのか、しかも何故着替えているのかもわからず、カイは何度か深く呼吸して、目を伏せた。自宅に戻ってからの記憶を、一つ一つ追いかけていく。
 仕事は、早めに終った。来訪していたソルと食事を済ませたところで、メイが訪ねてきた。しばらく二人で話をして、迎えに来たジョニーに彼女を預けて、その後は。
「・・・っ!」
 最後に残っている記憶を探り当て、カイは瞬時に顔を赤らめた。
 とはいえ、鮮明な記憶ではない。慣れない飲酒のせいで、ソルとグラスを傾け始めてからの記憶は殆ど曖昧だ。しかし途切れ途切れのそれが、なお一層カイを羞恥に苦しめた。
 口接け。自分で、圧し掛かるようにして、ソルを誘った。額当てを外し、刻印に唇を這わせて、ジャケットを脱がせて。
 ―――そして。
「・・・あ、れ」
 更に不確かとなった記憶に、カイは首を傾ける。
 考え込んだ所で、キッチンへのドアが開いた。ノックもなしにドアを空け、部屋に滑り込んできた男の姿に、カイは思考を中断し、挨拶もせずに慌ててシーツを顔まで引き上げた。
 合わせる顔がない、とはまさにこの事だ。ソルにしてみればあの程度の事、恥らうのも今更だと呆れられるかもしれないが、気恥ずかしさは消えてはくれない。
 案の定、様子を見に来ただけらしいソルは、溜め息交じりにぼやいた。
「飲めねぇくせに、がばがば飲むからだ」
 今回ばかりは何を言われても自業自得だ、とカイは口を噤んでいたが、しかし、耳を打ったソルの声に、ふと既視感に襲われた。
 すっかり聞き慣れた声だ。それこそ意識するなんて今更だ。
 カイはそうした自分の感覚すら訝しく、眉をひそめる。引き上げたシーツから再び顔を出し、今度はゆっくりと、注意しながら上体を起こし、ドアに寄りかかってベッドへ体を向けているソルに呼びかけた。
「・・・ソル?」
「あぁ? んだよ、まだ寝惚けてやがんのか?」
 低い声。苛立ちを含んだ声。知っている。人を突き放す響きのある口調は自分に向けてだけは時折、本当にたまにのことだけれど、穏やかに、優しさを帯びる事もある。
 だが、昨夜聞いた声は、もっと熱く、甘く、激しいものだった―――
 カイは一気に顔に血を上らせた。おぼろげな記憶の中で、それは一際鮮明なものとなって、カイの脳裏に蘇った。
 言葉だけが、はっきりと、耳の奥で反響している。だが、前後の記憶はやはり曖昧で不確かだ。どこまでが自分の記憶で、どこからが夢幻なのか。自身でさえ判断がつかず、カイはソルをじっと凝視した。
 彼は酔っていた風ではなかった。記憶もしっかりしているだろう。聞けば、答えてくれる、かもしれない。
 だが面と向かって聞くにはやはり躊躇いがあることだ。カイは何度も口篭りながら、視線をシーツとソルとで行き来させ、おずおずと口を開いた。
「ソル・・・あの」
「いつまでも呆けたツラしてんじゃねえよ」
 問いかけを、ソルは適当に手を振ってかわした。
「起きたんならさっさと来い。飯くらい用意してやる」
 無愛想に言い捨てたソルは、面倒そうに頭をかいて、カイに背を向けた。素っ気無い動作だった。それ以上の質問をはっきりと拒絶され、カイは目を剥く。何かを誤魔化すように思える所作は、男らしくもないものだ。
 カイはゆっくりと一度瞬きをした。もう一度記憶を辿ってみても、やはり昨夜の事は霞みがかかったようで、はっきりとはしなかったけれど。
 けれど、幻でも、夢でもない。
 キッチンへと消えていこうとする男を、カイは、小さい声で呼び止めた。
「・・・ソル」
 呼びかけに足は止まったが、ソルは振り返らなかった。けれどその方が都合がいいとカイは内心で安堵した。顔を見てしまえば決心は揺らぐであろうし、それにもう既に赤いであろう顔を隠す必要がなくなる。
 カイはソルの背中をじっと見つめて、一度大きく息を吸ってから、出来る限り平静な声を出した。
「好きです」
 素っ気無い、短い告白。受け止めた男の背中に変化はなく、指一本も動く事はない。少しの間を置いて、ぼそぼそとした声が一言だけを返してきた。
「何の話だ」
 やや苛立った響きはあるものの、声音にも大きな変わりはなかった。発言を許されたと解釈して、カイは高鳴る胸元に手をあて、鼓動を押さえつけながら、深く呼吸してどうにか普段と同じ声を紡ぎ出す。
「私の見た夢の話です」
「・・・・・・」
「凄く、気分が良くて。たまには、らしくない事も、言ってみたいなって」
「・・・そりゃ良かったな」
 ごく短く、抑揚の感じられない声で言い置いたソルは、そのままドアの向こうへと姿を消してしまった。何の反応も無かったが、それはかえって彼の心情を表しているかのようで、カイは一人残されたベッドの上で、吹き出す様にして笑った。
 一頻り笑い、ベッドから降りたカイは、素早く着替えを済ませ、簡単に身繕いしてキッチンへ向かった。ソルは先程の言葉通りに、黙々と食事の支度をしている。
 今はまだ、夢の話でもいい。でもいつかは、絶対に現実にしてみせるから。
 キッチンに立つ男の背中に、青年は甘えるように抱き付いた。





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